日本におけるヤマハシンセサイザーの普及活動
ヤマハシンセサイザーが、世の中で広く認知され、お客さまにご愛用いただいている背景には、決して「製品そのもの」の魅力だけではなく、「演奏される機会や場」「購入前に試すことができる場」「広告宣伝の影響」などさまざまな要因があります。ここでは、ヤマハシンセサイザーが、日本で開催した数多くのイベント、活動に焦点を当てて振り返ってみます。
1960年代後半から欧米のロック&ポップスの音楽が日本に入ってきました。そんな時代背景の中、ステージピアノとオルガンを組み合わせたコンボスタイルの楽器群をコンボキーボードと呼び、ギター、ドラムのバンド編成にキーボードも積極的に取り込まれていきました。
ヤマハでも1966年にギター市場へ「SG-5」をはじめとしたソリッドギター、ベースギター、ドラムアンプで参入。翌1967年には「D-22/26」をもってドラム市場に参入。1969年にはコンボオルガンYCシリーズの始まりとなる「YC-10」を発売。そしていよいよ1974年にはシンセサイザー「SY-1」をリリースしたのです。「LM」(※)という業界和製単語が提唱されたのもこの時期で、現在は業界や全国楽器店でも定番の単語として、店名、フロア名、部門名にも利用されています。(※LM:Light Music=軽音楽の略)
1969年から1986年まで開催されたヤマハ音楽振興会主催の「ポピュラーソングコンテスト」(ポプコン)はアマチュアを対象としたオリジナルソングを競うコンテストであり、音楽の普及啓蒙を目的としながら幅広く若者の間に浸透していきました(実は筆者もポプコンスタッフあがりです)。一方、同時期に日本楽器製造株式会社(現ヤマハ株式会社)主催のバンドコンテストが全国のヤマハの販売支店でスタートしました。こちらはアマチュアバンドの演奏技術向上と発展を目指して企画され、同時にLM楽器の普及・販促を目的としたものでした。
そのひとつ「ヤマハライトミュージックコンテスト」はポプコン開催の2年前である1967年から1971年までの第一期と、1981年から1986年までの第二期に分かれ、第一期ではフォークソング部門から吉田拓郎、赤い鳥、オフコースなどがデビューしています。1981年から1986年までの第二期では名称を「LIGHT MUSIC CONTEST」(LMC)と変えて展開。全国のヤマハ販売支店でLM楽器ビジネスの拡大をねらい、地域の独自性を生かしたアマチュアバンドコンテンストが予選会として開催され、全国大会へとつなげていきました。個性あるローカル大会として1973年から開催されていた大阪支店主催の「8.8 Rock Day」、また1976年から開催された東京支店主催の「East West」ではサザンオールスターズ、カシオペアなど多くのプロが輩出され、人々の記憶に残っていることでしょう。その他、名古屋支店「Mid Land」、北海道支店、仙台支店、浜松支店、北陸支店、広島支店、九州支店でさまざまなローカル・コンテストが最大9地区で開催されました。
当時はレコード会社のオーディションも存在しなかったため、1981年から1986年まで開催された「LMC」はプロへの登竜門であり、チェッカーズやSHOW-YAなどの出場は今やレジェンドとなっています。
さて、「アマチュアバンドの演奏技術の向上」、これがこれらコンテストの目的のひとつではありましたが、使用楽器もフォークギター1本といった時代から徐々に変化し、ステージピアノ、オルガンに加え、バンドサウンドにシンセサイザーが積極的に使用されるようになったのもこの時期からです。
1970年代後半からはアナログシンセサイザーCSシリーズの音作り販促教室が始まり、アナログシンセサイザーの普及・販促活動が全国直営店、楽器特約店で展開され始めました。また、インポート部門ではMoogシンセサイザーの輸入業がスタートしました。
1980年代に入ると「CS01」(1982年)のリリースでキーボーディストがコンボバンドのフロントラインに立つことを可能にし、広告宣伝活動でもコンサートやコンテストのステージでの活用を提案しました。外部音源をコントロールするMIDIリモートキーボードKXシリーズも同様のスタイルを確立しました。
1983年5月にフルデジタルシンセサイザー「DX7」リリースにあたり、ヤマハの国内支店ではキーボーディストを中心に猛者達を集め、普及・販促活動の伝道師になるデジタルインストラクターの採用・育成をスタート。1990年代のピーク時には国内支店に20名程度のデジタルインストラクターが配置されました。このころのデジタルインストラクターで現在も第一線で活躍するアーティストは多く、福田裕彦氏、氏家克典氏などはその時代からのプレイヤーです。
ヤマハでは「DX7」のヒットを機に、Xシリーズのユーザー体験イベントとしてデジタルフェア「X-DAY」を企画。1984年から1987年まで東京、大阪などで大規模イベントが計6回開催されました。1986年、東京池袋サンシャインシティを会場とした「X-DAY4」には最大35,000名の来場者数を記録。その後、全国特約店でもイベントを展開し、デジタルシンセサイザー市場でヤマハがトップポジションを確立したのもこの時期でした。Xシリーズを中心としたデジタル楽器システム「X’ART 100」のテレビCMが放送され、歌手の小林健が起用されました。1985年にはデジタル・ミュージック・センター「PULSE」が横浜、浜松、福岡にオープン。LM楽器、デジタル楽器・機器を展示する店内では、ヤマハ認定デジタルインストラクターがサポートする体験レッスンシステム「シンセプレイイン」が展開され、ユーザーとの情報交換の場として有効でした。
また、当時としては珍しいユーザーサークル「DXクラブ」を設置し、楽器購入ユーザーのサポートがマーケティング活動の中で重要なファクターとなっていることを検証することができました。これは、現在につながるお客さまサポート体制の礎になっています。
アーティストリレーションも活発になり、1985年には東京渋谷にR&D東京が設置され、ヤマハと多くのミュージシャンが交流を深め、製品プロモーションや商品企画開発が行われました。レコーディングスタジオを構え、TM Networkの「Get Wild」をはじめ数々の名曲のプリプロダクション、レコーディングも行われました。
「DX7」の販売促進活動として、ヤマハ音楽振興会主催のJOC(ジュニアオリジナルコンサート)や、エレクトーンフェスティバルでも「DX7」をべースパートに使用するなど、ヤマハグループ全体でデジタルシンセサイザーの普及・販促を一気に進めた時期でした。
1980年代後半からデジタルシンセサイザーの音源システムが、PCMベースに移行され始めましたが、ヤマハでは依然としてFM音源が活用されていました。シンセサイザーユーザーのさらなる拡大、社会化を目指し、初心者でも簡単に音作り、音楽制作が可能なシンセサイザーEOS(※)シリーズをリリースしました。(※EOS=Entertainment Operating System)
EOSシリーズは日本市場を対象とした製品でしたが、参入にあたり、リリースにインパクトを持たせるため、著名アーティストを起用したプロモーションを企画。1988年7月発売「YS100/YS200」の東京、大阪の発表会では、メインアーティストとして森高千里氏、サポートメンバーに浅倉大介氏が起用されました。プロモーションのメインキャラクターとしては、TM Networkの小室哲哉氏を起用し、後にTKプロデュースとして、EOSシリーズの企画・開発・広告宣伝にも参画していただきました。2001年に「EOS BX」のリリースタイミングでメインキャラクターを浅倉大介氏に譲るまで、小室哲哉氏は日本市場におけるシンセサイザー普及の最大の功労者と確信しています。
小室哲哉氏にはハードウエアのセールスプロモーションだけでなく、販売後のサポートも含め、新人発掘のためのコンテスト、イベントなど多くの活動にも参加いただきました。また中田ヤスタカ氏などEOSサウンドコンテスト出身のアーティストもいます。EOSシリーズは、シンセサイザーの音色プログラム、書籍などを組み合わせたコンテンツビジネスも大きな成果を生みました。プロデューサー小室哲哉氏の音楽活動と連動したプロモーションイベント「EOS DAY」「EOS CIRCUIT」は、ピーク時には全国で年間300回以上開催され、売上拡大に大きく寄与しました。
1984年から始まったデジタルフェア「X-DAY」、1988年から始まった「EOS DAY」やその後の「EOS CIRCUIT」につづき、1994年から2000年代にかけて、「Yamaha Digital World」「XG Sound World」といった新コンセプトのイベントを開催。1990年代半ばから、ワークステーションタイプのシンセサイザーが台頭、GM/XGといった音源の共通規格の制定、PCの普及と高性能化により音楽制作の市場形成が急速に進みました。そういった背景から、音楽ジャンルやユーザーニーズの多様化に対応すべく、シンセサイザー、コンピューター・ミュージック機器に加え、電子ピアノやポータブルキーボード、電子ドラム、デジタルミキサーといった豊富なラインアップを「Yamaha Digital World」「XG Sound World」では出展しました。出演者も豪華で、小室哲哉氏、冨田勲氏、松武秀樹氏、向谷実氏、神保彰氏など錚々たるメンバーで大盛況でした。先述したR&D東京によるアーティストリレーションの成せる業といえるでしょう。
1997年5月、完成したばかりで話題性の高かった東京・恵比寿「ザ・ガーデンホール」でプレスやディーラー対象の発表会も含め、3日間開催した「Yamaha Digital World」には、約1万人の来場者がありました。
このころの記念すべきものとしては、「XGフォーマット」のプロモーションとして、シンセサイザートップアーティストであった冨田勲氏、坂本龍一氏、小室哲哉氏を起用した広告で、新聞全段広告シリーズは新聞広告大賞を受賞しています。
また、1997年に坂本龍一氏とのコラボレーションで行った「インターネットMIDIライブ」は全国30カ所に設置したMIDIピアノの自動演奏遠隔ライブでしたが、ギターシンセサイザー、電子ドラム、XG音源モジュールを使用し、そこにオーディオ信号を組み合わせ、衛星システムも利用した世界初の試みでした。このチャレンジは以降も「インターネットMIDIライブシステムMidLive」として数回にわたり「実験」が行われました。
1990年代後半は、シンセサイザーがDJプレイで使用される機会が増え、リアルタイム性を活かしたクラブサウンド市場へ参入しました。こちらは「サウンドエッジ」をコンセプトにアーティストコラボプロモーションの活性化によるビジネス拡大を図りました。2000年代にはコンピューターのスペックの飛躍的向上もあり、シンセサイザーをフィジカルコントローラーとし「PCインテグレーション」を提唱し始めた時期でもあります。
90年代半ばから2000年代に開催した「Yamaha Digital World」「XG Sound World」に代表される数々のイベントは、演奏者向けのシンセサイザーのみならず、コンピューター・ミュージックの世界、いわゆるDTMを市場に提案する非常に大きな契機となりました。
2000年代半ばには、「P-250」「S90」「CP300」といったピアノベースの商品が多数リリースされたことから、「Yamaha Synthesizer & Stage Piano Special Day」(通称YSS DAY)というイベントが開催され、「キーボーディストはやっぱりカッコイイ!!」をスローガンに、多くのキーボーディストが出演、その演奏により観客を魅了しました。
そして、2009年以降は、2006年からヤマハが国内で取り扱いを開始したSteinbergブランド商品と併せ、「Yamaha & Steinberg EXPO」(通称YSE)といったイベントを開催、シンセサイザーとコンピューターベースの音楽制作環境を両輪で展開しました。2011年に東京「青山スパイラル」で開催した同イベントでは、十数年ぶりに小室哲哉氏が出演。ホールでの単一ステージは400名を超える動員となり、リアルタイム動画視聴は6万ビューを超えるなど、ライブ配信黎明期当時としては記録を作りました。
ここでシンセサイザープログラマーを取り巻く環境について少し触れておきましょう。シンセサイザーが登場した当初は、コンピューターが演奏した音楽として、シンセサイザープログラマーは実演家としては認められず、二次使用料などが支払われない状況下にありました。電子楽器を扱う音楽家の技能と地位の向上を目指し、1988年に設立された「日本シンセサイザープログラマー協会」(JSPA)は、冨田勲氏、松武秀樹氏の尽力により、JSPAの日本芸能実演家団体協議会への入会によってシンセサイザープログラマーに実演家としての人格権を認めさせ、1994年、著作隣接権を獲得しました。その後、シンセサイザープログラマーの役割が重要度を増していったため、2016年にその名称を「日本シンセサイザープロフェッショナルアーツ」に変更し現在に至ります。
シンセサイザーに代表されるデジタル楽器は、新しい楽器・音楽ゆえに、JSPA以外にもさまざまな団体が発足。「全国電子電気楽器協会」(1976年)、「MIDI規格連絡協議会」(1983年)、「日本電子音楽ソフトウエア協会」(1988年)などがそうで、業界を牽引していきました。その後、これらが合併し、1996年からは「社団法人音楽電子事業協会(AMEI)」として出発、さらに業界の基盤が強化されていったという歴史があります。
ヤマハはプログラマーの権利保護の点からも賛助団体として当初よりJSPAと継続連携し、現在もJSPAには商品企画開発、普及・販促広告活動に協力をいただいています。また、ヤマハはAMEIなどの団体設立にも深く関わり、MIDI検定の整備にも尽力。2024年に発表されたMIDI 2.0の普及にも積極的に取り組み、電子音楽の普及、発展に貢献しています。
近年、新興シンセサイザーメーカーが乱立する市場で、ヤマハ、ローランド、コルグの3大ブランドが、業界を盛り上げようとイベントをスタートし、業界イベント「シンセフェスタ」でも中心的な役割を果たすなど、「One Team」として市場活性化活動を続けています。ユーザーが複数にわたるブランドから電子楽器を選択し組み合わせて使用するという実情の中、それに応えて機器を提供するメーカー側も新しいフェーズに入ったといえるでしょう。
シンセサイザーが誕生し、50余年に及ぶ経緯の後、現在はライブパフォーマンス市場と音楽制作市場の2つが定着した時代になっている。シンセサイザーの現在の地位は、モノ作りのみならずその時代の人々が体験し、記憶に残るマーケティングと普及活動によって築かれてきたものである。
今後の来るべき新たなシンセサイザーの世界、その進化に期待をしている。
小島高則