八條美奈子
現在、仙台で音楽教室を営みつつ演奏活動を続ける水井稔だが、実はフルートから離れていた期間が長く、デビューリサイタルを開いたのはなんと38歳のときだったという。
水井 稔 Minoru Mizui
山形北高等学校音楽科を経て、国立音楽大学器楽科卒業。仙台を中心に東北各地にてリサイタルを開催している。学校コンサートや各種イベントでの招待演奏など各種演奏会に出演。親しみやすい語り口での演奏会は定評がある。2003年、フルート&ハープによるCD、[~ふわふわ~水井稔 フルート小品集]をリリース。2006年4月、中国アモイ大学創立85周年記念コンサートに招聘され、ハープと共演。大学関係者、学生より絶賛される。長年にわたり東北、関東地方の吹奏楽指導に携わり、コンクールの審査員なども努める。又、仙台フルートコンクールを主宰。毎年海外を含め全国から100名以上が参加し、2021年11月には第17回大会を迎える。積極的に後進の指導、育成など東北のフルート音楽の発展に力を注いでいる。仙台ミュージックプラザ代表。
吉田雅夫氏に師事するも……
自分では覚えていませんが、生まれは北海道・夕張の炭鉱で、2歳のときに山形に引っ越したと親に言われてきました。
高校は山形北高校の音楽科に進みましたが、当時は声楽科かピアノ科しかなかったので、1年生のときは声楽のレッスンを受けていました。2年目からは小野正明先生が来て、フルートを教えてくれることになりました。私は中学校の吹奏楽部でサックスをやっていたのでやはり管楽器がやりたいと思い、フルートを習うことにしました。
さらに3年生の夏からは、吉田雅夫先生のところに通うようになり、ちょうどその頃吉田先生が国立音大で教えてらっしゃったので、国立音楽大学に進みました。
大学に入って1年目は真面目に勉強していたのですが、吉田先生のレッスンで課題として与えられたのがアンデルセンの『24の技巧的練習曲』OP.15というエチュードでした。私はそれまでケーラー『フルートのための35の練習曲』の1、2巻を何とかやった程度でしたので、練習してもどうしてもできない。先生にも申し訳なく思い、そのうちレッスンをサボるようになってしまいました。1年間くらいでドロップアウト状態になってしまって、2年目からは遊び呆けていました。語学も落としてしまって、4年生のときに2年分取りましたよ。
フルート自体は吹いていましたが、「もう一度真面目に勉強しよう」とはなりませんでした。今思えば、当時吉田先生に付くことは貴重な機会だったので、非常にもったいないことをしました。当時「吉田先生のレッスンを1回受けると音が変わる」と言われていましたし、私自身もそういう経験があります。高校時代は月1回のレッスンでしたが、その度に自分の音が変わっていくのがわかりましたから。
フルートと無縁の時期
卒業と同時にフルートの先輩に誘われて、大学時代からアルバイトをしていたリコーダーの会社に入り、講師をすることになりました。全国を回って小学3年生に指導をするという仕事です。フルートは「もう二度と吹かない」というつもりで売り払ってしまいました。
ところが、毎日毎日、体育館に小学3年生が集まったところに行って講習会をするわけで、おのずと話のパターンも決まってきます。まるでテープレコーダーのように同じ話を繰り返すだけ。それが耐えられなくなって2年で辞めました。その後、夜のバーテンのアルバイトをしました。何も知らずに面接に行ったら新宿2丁目のゲイバーだったんです。
タレントや有名人がたくさん来る店で、楽しかったですよ(笑)。そこに1年いた後は、ずっと営業でした。テレフォンアポインターから訪問販売と、様々な業種の営業をしていましたね。10年で15職くらい経験しましたが、その間、また音楽をやろうと考えたことはありませんでした。
そうしているうちに『ショパン』という雑誌で募集があって、面接を受けたら受かったんです。そこで半年ほど働いたときに、山形時代のフルートの恩師である小野先生から電話が来て、「私立高校で教員として吹奏楽指導ができる人を探している。お前しかいない。」と。それは迷いましたよ。せっかく一生の仕事が見つかったと思った矢先でしたから。いろいろな人に相談したら、「長男なんだから地元に帰るのもいいのでは?」ということになり、面接を受けて1月頃に国立のアパートを引き払って山形に帰りました。ところが3月になっても音沙汰がない。校長先生に尋ねてみると「新入生が予定より減ったから雇えない」という話で、困り果ててしまいました。
そこに今度はリコーダー時代の私を知っていた仙台の鍵盤ハーモニカの会社から「ぜひ来てくれ」と。私を雇えば小学1年生の鍵盤ハーモニカ講習、3年生のリコーダー講習、そして吹奏楽指導と、3人分になる。以前嫌になって辞めた仕事なので一度断りましたが、強く誘われて行くことになりました。ここで、思ってもいなかった仙台に来ることになった訳です。27、8歳の頃でした。ところがやはり再び耐えられなくなってしまい、4年ほどで辞めることになりました。
次は、イェルク・デームスが作ったピアノの指導LPレコードと教本を販売する会社の、仙台支店長をすることになりましたが、これも親会社が取り扱いをやめてしまったため2年くらいで終わりました。
再びフルートを吹くことになり、38歳でデビューリサイタルを
「いつまでもこんなことをやっていても仕方がないから、自分で起業しよう」と、32歳で総合音楽事務所水井オフィスを立ち上げて、いくつかの公演のマネージメントを行なった後に、音楽教室を開設しました。その後いろいろあって、水井オフィスは現在の仙台ミュージックプラザへと名前を変え、音楽教室を中心に活動しています。
水井オフィスを立ち上げた頃、やはり仙台で音楽事務所をやっていた国立音大出身の先輩から、「ホテルでフルートを吹く人がいない。水井はフルートだったよな?」と連絡がありました。バブルでしたので、イベントを毎日のようにやっていたんです。私はもう長いこと吹いていないし、楽器もないので断ろうと思ったら、楽器を用意されました。しかし久しぶりに吹いてみると息が1小節もつながらないし、アンブシュアもめちゃくちゃ。1週間特訓して、ホテルの賀詞交歓会でなんとか演奏しましたが、死にそうでした。
その後もプレーヤーとして事務所に登録してもらって、少しずつ吹く機会が増えてきました。そのうち「習いたい」という人が出てきたので、自分の音楽教室で教えるようになりました。35歳のときでした。
こうして、約15年のブランクを経て、音楽の世界に戻ったわけです。「もう一度フルートを真面目にやろう」と思って38歳でデビューリサイタルを開いて、フランクのソナタを吹いたのですが、ボロボロでしたね(笑)。国立の先輩に「お前、何年フルート吹いているんだ!」と言われ「8年くらいです」と答えたら、8年で吹ける曲じゃないだろうと怒られました。
東北、そして仙台のフルート文化のために
仙台には、昔から有力なフルート指導者がいなかったようです。そのせいもあってか、なかなかまとまらないんです。「東北って何をやっているの?中央のコンクールにあまり出てこないし、活動が見えない」と言われたことがあって、「何とかしなければ」と思い東北で唯一のフルートコンクール「仙台フルートコンクール」を始めました。
2005年に第1回を行なって、今年17回目になります。これは年齢も国籍もプロ/アマも関係なく誰でも参加できるもので、1次審査は全員がホールのステージで吹けますから、それを目的に毎年受けに来るアマチュアの方もいますよ。中学生以下部門・高校生部門もありますから、全国から集まる参加者に触発されて、地元の中学・高校生も増えてきました。課題曲のレベルは絶対に上げないようにして、吹奏楽しかやったことのない人たちも参加できるようにしています。
このコンクールを始めてから、確かに東北のフルートのレベルが上がったと感じます。今活躍している知久翔さんや櫻井希さんなどは子どもの頃からこのコンクールを受けてくれていましたから、ある意味所期の目標は達成できたのかなと思います。
また、仙台のフルーティストの横のつながりを作ろうと、仙台ミュージックプラザが事務局となって、平成元年に「仙台フルートの会」というフルートオーケストラを作りました。「地域のために、みんなで高め合っていこう」という趣旨で、当初はプロも20人くらい集まりましたが、メリットが感じられないということで2回目以降は数人しか残らず、アマチュアが多数を占めるようになりました。10年くらい続けましたが私の仕事が忙しくなり、事務局を移転したあとは、活動休止の状態のようです。今は仙台のフルート吹きが集まれるような場がない状態になっています。
音楽活動で大事だと思っていることは?
一番大事にしているのは、音楽ファンを増やすことです。でも、ただコンサートをやっているだけではファンは増えませんから、何かファンを増やす方策を立てないといけない。
以前、私のリサイタルで受付をしていた人たちに言われたことがありました。「お客さんの来たときの顔と帰るときの顔が全然違う」と。喜んで顔を赤らめて帰っていったそうです。それが、まさに私の望んでいること。「音楽っていいものなんだな」と思わせないと、次に続かないですよね。いかに喜んで帰ってもらえるかが大事だと思います。これはレッスンでも同じです。
うちにレッスンを受けに来る人はアマチュアの大人が多いのですが、何を目的に来るかというと、もちろんフルートが上手になりたいのですが、息抜きに来るんです。だから1時間レッスンして、疲れて帰るのではいけない。何かしら「よかった」「楽しかった」と思って帰ってもらわないといけないと思っています。
イデアルとの出会い
クラシックにあまり馴染のない人がリサイタルに来てくれると、「1曲も知らねかった~」「いいんだか悪いんだかわかんね」という人がたくさんいます。そういう人のために、もっとみんなが知っている曲をやらなければと思って、2019年の末に初めてポピュラーコンサートを行ないました。これはみなさん喜んでくれて、「もう1回やってください」とすごく言われました。
ところがこれは、楽器をイデアルにしたからこそ、やりたいと思えるようになったのです。
それまで私はヤマハのŸFL-911Aという楽器を25年使っていました。明るい音色ときれいな高音の伸びに一目ぼれで、気に入っていたのですが、イデアルに替えてからはまったく違う可能性が見えるようになり、「これでポピュラーの歌の曲を吹いたら素晴らしいだろうな」と感じるようになりました。
最初のイデアルとの出会いは、ŸFL-911Aのメンテナンスのときに試作品を吹かせてもらったことです。上から下まで楽に音が出て、めちゃくちゃいい。しばらく元の楽器を使っていましたが、最近になってシルバーのイデアルを吹いてみたら、やはりいい。
前の楽器も気に入っていましたが、25年分の進化を感じましたね。「これは借金してでも買わなければ!」と、2年前に手に入れました。
「楽に鳴る楽器はよくない」と言う人もいますが、そんなことはありません。鳴らない楽器は苦労して鳴らしても、やはり思うようにならないんです。私の弟子も3人イデアルを使っていて、そのうち1人は忙しくて週に1度しか吹けないのですが、レッスンで断然音が鳴るようになりました。「楽器に助けられてるね」とよく話しています(笑)。
イデアルを使うようになって変わったこと
まず、いい音が出るまでのウォームアップの時間が以前の半分以下で済みます。私は会社経営者ですから、他のプロのフルーティストのように毎日欠かさず練習できるわけではありません。前の楽器は3日くらい吹かないと元に戻るのにかなり苦労しましたが、イデアルだとすぐにいい音が出る。これは私にとっては最高ですよ。
だから、プロはもちろんのこと、1週間に2、3日しか楽器を吹けないというアマチュアの方にも最適だと思います。
それから、イデアルには音の深みがあるし、パワーもある。だからものすごく響く。去年のリサイタルのときにも、「ずいぶん音が大きくなったよね」とお客さんに言われました。逆に、高音のppで消えるように終わるという場面でも、以前の楽器ではアンブシュアを作ってかなり苦労していたのですが、イデアルではブレスだけ弱めれば、ピッチも狂うことなく、スーッときれいに行けます。こんな楽な楽器はありませんよ。
演奏の可能性もかなり広がりました。先ほどお話ししたポピュラーコンサートを1年半前に行なったのですが、イデアルを吹くようになって「この楽器ならできる」と感じたからです。前の楽器ではやろうと思えませんでした。
イデアルは陰影のある表情、様々なニュアンスが出せて、自分の声で歌うのと同じように表現を変えられるんです。例えば『キャッツ』の《メモリー》では同じフレーズが何度も出てきますが、それを毎回微妙に違った表現で演奏することができます。前の楽器ではせいぜい2~3種類というところでしたが、イデアルでは無段階にちょっと明るくしたり、ちょっと暗めにしたりと、自分のイメージ通りに差をつけられるわけです。まさに「歌うがごとく」ですよね。
《Quel est votre idéal?》――あなたの「理想」は何ですか――
先ほど、お客さんがリサイタルに来たときと帰るときの顔が違うという話をしましたが、音楽というのはそれだけ人間に与える影響が大きいものです。その意味でも音楽はなくてはならないもので、決して衰退させてはいけない。もっとクラシック音楽が生命(いのち)に響くような世の中になることが理想だと思っています。
だから我々音楽に携わる者はもっと努力して、より多くの人に「音楽っていいものなんだなあ」と思ってもらえるようにする使命があるんです。
文:今泉晃一/写真:武藤章/撮影場所:ヤマハミュージック仙台/サンモール一番町商店街アーケード
【ハンドメイド】イデアル
フランス語で“理想”という名を持つフルートは新たな到達点です。ソロ演奏からオーケストラまで、プロ演奏家のシビアな要求にも応える優れた演奏性。ハンドメイドならではの優雅な風格をたたえ、美しいラインで構成された外観。匠の手腕を注ぎ込み、時間をかけて入念に作り込まれた高級感溢れるハンドメイドフルート “イデアル”です。