Web音遊人(みゅーじん)

ソプラノの佐藤美枝子、第50回ENEOS音楽賞 洋楽部門本賞受賞

1998年6月、モスクワで開催された第11回チャイコフスキー国際コンクールの声楽部門の優勝者は、わが国のソプラノ、佐藤美枝子だった。多くの審査員は第1次予選から彼女の優勝を確信したという。とりわけチャイコフスキーの「子守歌」は聴き手の心を打った。

チャイコフスキー・コンクールでは、体躯堂々とした声楽家たちがダイナミックでスケールの大きな歌をうたい上げる。そのなかにあって、佐藤美枝子の透明感あふれる清らかなコロラトゥーラ(速いフレーズのなかに装飾音やトリルを施し、技巧的で華やかな旋律をいう)・ソプラノは異色の存在だった。

彼女は長年マリア・カラスに憧れ、ドラマティックで情熱的で迫力に富む曲をレパートリーとしてきた。しかし、そうした作品ではどうしてもコンクールで第1位を獲得することはできなかった。声質が違ったのである。恩師の松本美和子に指摘され、コロラトゥーラ・ソプラノに転向。以後、歌唱法、解釈、表現力などすべてを変える努力をし、ついにチャイコフスキー・コンクールで栄冠をつかんだ。

ただし、コンクールではコロラトゥーラ・ソプラノの曲がリストから落ちていたために新曲を3日間で暗譜しなければならないという苦境に立たされたり、優勝後はさまざまなプレッシャーにさらされて思うようにうたえなくなるなど、試練の日々が続いた。

だが、佐藤美枝子は「努力の人」である。コンクール後20余年、自分の声、からだと真摯に対峙し、内面と向き合い、声を磨き上げてきた。《ランメルモールのルチア》《ランスへの旅》から近年は《夕鶴》などのオペラでも真価を発揮、その実力が評価され、2020年の第50回ENEOS音楽賞(旧JXTG音楽賞)の洋楽部門本賞の受賞につながった。

「いまはコロナ禍により音楽家にとって大変な時期ですが、私は低迷している時期に大きな賞をいただくことがあり、勇気を与えられます。チャイコフスキー・コンクールもそうでしたが、今回なかなかステージでうたうことがかなわない時期にこの音楽賞をいただくことができ、大きな喜びを得ました。長年にわたってベルカント(美しい歌の意味。18世紀に成立したイタリアの一種の歌唱法。音の美しさ、むらのないやわらかな響きや節回しに重点が置かれている)歌唱をこつこつ学んできた少数派ですが、じっくり声を作ってきた、それが認められてうれしいですね。あまり演奏される機会に恵まれないオペラをかたくななまでに探求している、そうした姿勢も評価していただけたと思い、感無量です」

これまでは非常に多忙だったが、いまはじっくり勉強できる、新たなレパートリーに取り組むことができる。声を休ませ、人間らしい生活ができると前向きな姿勢を崩さない。

「今後はドラマティコ・ダジリタ(ソプラノのなかでももっとも力強く太さをもった劇的なドラマティコの声に加え、コロラトゥーラでもうたうことができる)をきちんと勉強していきたいですね。ドニゼッティ《アンナ・ボレーナ》、ベッリーニ《ノルマ》《海賊(イル・ピラータ)》などを。近年はみなさんが中間音の響きが増した、深くなったといってくださるため、その発声を拡大していきたいと思っています。声楽家はからだが楽器ですので、心身ともに健康でありたいと願っています」

佐藤美枝子の歌は聴き手の心の深奥に浸透し、その緊迫感と集中力に満ちた歌声はさらに人の心を癒し、活力を生み、生きる力を与えてくれる。2020年9月12日にはやまと芸術文化ホールで「佐藤美枝子のオペラ『蝶々夫人~ハイライト』」が上演される予定。磨き抜かれ、熟成した《蝶々夫人》が披露されるに違いない。

■インフォメーション

佐藤美枝子のオペラ『蝶々夫人~ハイライト』
公演日:2020年9月12日(土)15時開演
会場:神奈川・やまと芸術文化ホール
料金:4,000円 (全席指定・税込)
詳細はこちら

伊熊 よし子〔いくま・よしこ〕
音楽ジャーナリスト、音楽評論家。東京音楽大学卒業。レコード会社、ピアノ専門誌「ショパン」編集長を経て、フリーに。クラシック音楽をより幅広い人々に聴いてほしいとの考えから、音楽専門誌だけでなく、新聞、一般誌、情報誌、WEBなどにも記事を執筆。著書に「クラシック貴人変人」(エー・ジー出版)、「ヴェンゲーロフの奇跡 百年にひとりのヴァイオリニスト」(共同通信社)、「ショパンに愛されたピアニスト ダン・タイ・ソン物語」(ヤマハミュージックメディア)、「魂のチェリスト ミッシャ・マイスキー《わが真実》」(小学館)、「イラストオペラブック トゥーランドット」(ショパン)、「北欧の音の詩人 グリーグを愛す」(ショパン)など。2010年のショパン生誕200年を記念し、2月に「図説 ショパン」(河出書房新社)を出版。近著「伊熊よし子のおいしい音楽案内 パリに魅せられ、グラナダに酔う」(PHP新書 電子書籍有り)、「リトル・ピアニスト 牛田智大」(扶桑社)、「クラシックはおいしい アーティスト・レシピ」(芸術新聞社)、「たどりつく力 フジコ・ヘミング」(幻冬舎)。共著多数。
伊熊よし子の ークラシックはおいしいー

特集

今月の音遊人

今月の音遊人:May J.さん「言葉で伝わらないことも『音』だったら素直に伝えられる」

9905views

音楽ライターの眼

連載7[ジャズ事始め]民間初の常設舞踏場が担った日本のジャズ文化発信

3608views

赤ラベルが再現!ヤマハギター50周年記念モデル

楽器探訪 Anothertake

赤ラベルが再現!ヤマハギター50周年記念モデル

11600views

楽器のあれこれQ&A

いまさら聞けない!?エレクトーン初心者が知っておきたいこと

27668views

おとなの楽器練習記

【動画公開中】ギタリスト木村大とピアニスト榊原大がトランペットに挑戦!

7337views

オトノ仕事人

テレビ番組の映像にBGMや効果音をつけて演出をする音の専門家/音響効果の仕事

2857views

ザ・シンフォニーホール

ホール自慢を聞きましょう

歴史と伝統、風格を受け継ぐクラシック音楽専用ホール/ザ・シンフォニーホール

24328views

東京文化会館

こどもと楽しむMusicナビ

はじめの一歩。大人気の体験型プログラムで子どもと音楽を楽しもう/東京文化会館『ミュージック・ワークショップ』

7563views

ギター文化館

楽器博物館探訪

19世紀スペインの至宝級ギターを所蔵する「ギター文化館」

14938views

上海ブラスバンド日本支部

われら音遊人

われら音遊人:上海で生まれた縁が続く大家族のようなブラスバンド

2411views

山口正介さん Web音遊人

パイドパイパー・ダイアリー

サクソフォン教室の新しいクラスメイト、勝手に募集中!

4595views

太平洋に浮かぶ楽園で、小笠原古謡に恋をする Web音遊人

音楽めぐり紀行

太平洋に浮かぶ楽園で、小笠原古謡に恋をする

10146views

おとなの楽器練習記:岩崎洵奈

おとなの楽器練習記

【動画公開中】将来を嘱望される実力派ピアニスト、岩崎洵奈がアルトサクソフォンに初挑戦!

11685views

上野学園大学 楽器展示室

楽器博物館探訪

日本に一台しかない初期のピアノ、タンゲンテンフリューゲルを所有する「上野学園 楽器展示室」

19877views

音楽ライターの眼

連載41[ジャズ事始め]『ランドゥーガ〜セレクト・ライブ・アンダー・ザ・スカイ’90』解説その1

1553views

オトノ仕事人

オーダーメイドで楽譜を作り、作・編曲家から奏者に楽譜を届ける/プロミュージシャン用の楽譜を制作する仕事

17933views

われら音遊人

われら音遊人:みんなの灯をひとつに集め、大きく照らす

5728views

楽器探訪 Anothertake

ピアニストの声となり歌い奏でる、コンサートグランドピアノ「CFX」の新モデル

4972views

水戸市民会館

ホール自慢を聞きましょう

茨城県最大の2,000席を有するホールを備えた、人と文化の交流拠点が誕生/水戸市民会館 グロービスホール(大ホール)

5767views

山口正介さん Web音遊人

パイドパイパー・ダイアリー

いまやサクソフォンは趣味となったが、最初は映画音楽だった

6815views

大人のピアニカ

楽器のあれこれQ&A

「大人のピアニカ」の“大人”な特徴を教えて!

3367views

こどもと楽しむMusicナビ

オルガンの仕組みを遊びながら学ぶ「それいけ!オルガン探検隊」/サントリーホールでオルガンZANMAI!

8861views

太平洋に浮かぶ楽園で、小笠原古謡に恋をする Web音遊人

音楽めぐり紀行

太平洋に浮かぶ楽園で、小笠原古謡に恋をする

10146views