今月の音遊人
今月の音遊人:八代亜紀さん「人間だって動物だって、音楽がないと生きていけないと思います」
10529views
ポロネーズに始まりマズルカに終わる、ショパンの誇り高き精神をめぐるポーランドの旅
31130views
2017.4.28
子どものころに習っていたピアノの先生は、とても厳しい人だった。練習しない自分が悪いのは明々白々なのに、先生を尊敬するどころかちょっとした嫌悪感すら抱いていたのだから逆恨みも甚だしい。しまいには、作曲家たちにまで心のなかで悪態をつく始末。ショパンも例外ではない。ピアノの詩人?繊細で可憐?こっちは『子犬のワルツ』を耳にするたび、掌にじんわり汗がにじんでくるっていうのに……。
だから、ショパンに惹かれるようになったのは、ずいぶんと時間が経った大人になってからのことだ。リストとも恋人関係にあった恋多き女性ジョルジュ・サンドとショパンが恋に落ちたという、子どものときには知らなかった事実はとりわけ魅力的なエピソードだった。彼女と付き合っていた時期は、多くの作品を生み出したショパンの黄金時代ともいわれている。『子犬のワルツ』は、サンドが飼っていた子犬が自分の尾を追ってくるくると回る様子を見て書いた曲だという話を知っていたら、私はもっと違った気持ちで練習にのぞんでいたかもしれない。
さて、ショパンは、39年という短い人生のなかでヨーロッパのあちこちを移動している。生地であるポーランドのジェラゾヴァ・ヴォラから20歳まで過ごしたワルシャワへ。音楽の都ウィーン、輝かしい成功を収めたパリ、そしてサンドと生活をともにしたスペインのマヨルカ島と中部フランスの村ノアン……。
20歳のときポーランドを離れたショパンは、二度と祖国の地を踏むことはできず、その遺志にしたがって家族によって心臓だけがポーランドに持ち帰られた。作曲家としても演奏家としても成功したショパンの後半生は、実は故郷や家族と遠くを離れた寂しさのなかにあり、その心には常に祖国への強い思いがあったのだと思う。ショパンが少年~青年期を過ごしたワルシャワを訪れてみたいと思った。
心臓が安置されている聖十字架教会をはじめとするショパンゆかりの教会の数々やショパン博物館。有名なショパン像があるワジェンキ公園では、ショパンの曲を演奏する屋外ピアノコンサートが行われていた。ショパン生誕200年にあたる2010年には、ゆかりの地に「ショパンのベンチ」が設置され、ボタンを押すと名曲が流れてくる。郊外のジェラゾヴァ・ヴォラまで足をのばせば、生家がたたずむ。
街中にショパンがあふれていたが、私がもっともショパンに思いを馳せたのは、世界遺産に登録されているワルシャワ歴史地区の旧市街マーケットプレイスに立ったときだった。
そこには、かつて「北のパリ」と呼ばれた中世の美しい街並みが広がっていた。しかし、これらはすべて第二次世界大戦後に復元されたものだ。
第二次世界大戦ではナチス・ドイツの侵攻によって、ワルシャワの街の約8割が瓦礫と化した。戦後、人々は残されたスケッチや風景画などをもとに、街の復元に着手したという。もともとのレンガや残った建物を再利用し、「レンガのひび割れひとつにいたるまで」取り戻したのだ。
ポーランドには、周囲に翻弄されてきた苦難の歴史がある。ロシア、プロイセン、オーストリアの3国によって分割されたポーランドは、123年もの間、世界地図から姿を消してしまう。ショパンが故郷を出た1830年に起こったフランス7月革命はヨーロッパ各地に影響を与え、そのすぐ後にポーランドでもロシアからの独立のための反乱が起きた。知らせを聞いたショパンは、帰国して戦うことを望んだが、まわりの説得で断念してパリへ逃れ、そこで音楽活動を続けるのだ。そして、そのワルシャワ蜂起も失敗に終わり、主権回復の夢はついえてしまう。
旧市街に立っていると、ポーランドの人々の不屈の精神や矜持がまざまざと感じられた。時代は違えど、ショパン音楽の根源も、そこにあるような気がする。
神童と呼ばれたショパンは、わずか7歳で最初の作曲をした。それは、幼少のころから母が歌ってくれたポロネーズ。そして、亡くなる直前に書いたのはマズルカだったといわれている。ともにポーランドの文化に根づいた舞曲だ。そこに、祖国に対する強い思いや誇り、情熱が凝縮されているのだろう。
ゆかりの地をめぐる小さな旅を終え、あらためてショパンの曲を聴いてみた。聴きなれた『英雄ポロネーズ』や、ポーランドが独立に失敗したときに書いたといわれる『革命エチュード』……。名曲がまた違った響きで心に迫ってくる。
写真提供:ワルシャワ観光案内所
「ショパンのワルシャワ」http://ja.chopin.warsawtour.pl/