Web音遊人(みゅーじん)

調律師 曽我紀之

演奏者が望むことを的確に捉え、ピアノを最高のコンディションに整える/コンサートチューナーの仕事

たとえピアノを弾いたことがない人にとっても、「調律師」は広く知られる存在だろう。しかし、具体的な仕事内容となると未知なる部分が多いかもしれない。「一音出せば、その日のピアノの状態がわかる」というヤマハの調律師、曽我紀之さんにその仕事について聞いた。

調律の基本は調律、整調、整音の3本柱

調律師とひと口にいっても、一般家庭からコンサートやコンクールのピアノ、製造工程内にある工場のピアノの調律まで活躍の場は幅広い。
「どのピアノであっても基本となる仕事は同じで、調律、整調、整音が調律の3本柱です。さらに、修理も調律師の仕事のひとつです」
ピアノを構成するパーツはおよそ8,000個に及び、鍵盤を押すとハンマーが弦を押す「アクション」という仕組みによって音が鳴る。
「調律」は、弦の張力を加減しながら正確な音律をつくる作業。88鍵の鍵盤にそれぞれ2~3本、総数にして約230本の弦が張られており、これを1本ずつ鳴らしていく。
「整調」は、鍵盤の高さや、押した時の深さ、アクションの動きを整えて演奏者のタッチに正確に応えられるようにする作業だ。
「整音」は、音色や響きのバランスを整えるために、ハンマーの硬さや弾力を調整する。

調律師 曽我紀之

調律師として半音の1/1000をどう動かせるか、これをコントロールするのが曽我さんの仕事。

コンサートチューナーに求められるのは取捨選択のスキル

調律師のなかでも特出した技術と感性をもち、コンサートピアノを担当するのがコンサートチューナーだ。
曽我さんは、そのコンサートチューナーとして世界中の多くのアーティストから絶大な信頼を寄せられている。現在、担当しているのは、長い付き合いとなった仲道郁代さんや小曽根真さんなど、世界に名立たるピアニストたち。シプリアン・カツァリスさんや、角野隼斗さんとの共演でも注目されたフランチェスコ・トリスターノさんが来日した際も、調律を担当している。
「コンサートの場合は当日の朝、会場にあるピアノ、あるいは私たちが搬入したピアノを最高のコンディションにもっていくよう調整します。リハーサル中は響きを確認しながら、会場のあちこちをうろうろしていますね。リハーサル後に、アーティストと打ち合わせをして最終調整。開演後、休憩中にも調整します」
音程を測定するための単位では、半音の100分の1を1セントという。曽我さんはその10分の1、つまり半音の1000分の1の単位の制度で音程を合わせている。演奏することで生じる、ピアニストにすらわからないほどのコンマ単位の微細なズレも曽我さんの耳は聴き逃さない。
コンサート調律は、時間との戦いでもあると語る。家庭用のアップライトピアノでは調律には90分~2時間を要するが、コンサートピアノの調律に与えられる時間は通常わずか2時間程度。
「我々が搬入する場合は、知っているピアノですから余裕をもって調整できます。一方、現地のピアノは最初に弾いたときによかったと思うか、エライことになったと思うか(笑)。2時間後に、ピアニストに満足して弾いていただくために調律、整調、整音の3つのどれにどのくらい時間をかけるかを、頭のなかで素早く計算しながら作業します」
多くの時間をかけてどれだけすばらしい調律ができても、現場に対応できなければ意味がない。重要なのはスピード。限られた時間をどう配分し、いかに取捨選択していくかが重要なスキルとなる。
曽我さんには、思い出深いエピソードがある。仲道郁代さんが毎年行っている宮城県・七ヶ浜のアウトリーチ・コンサートの第1回。会場となる小学校の音楽室に置かれたピアノは相当古く、メンテナンスが行き届いているとは言い難いものだった。当然ながら仲道さんは、きちんとした音を子どもたちに聴かせたい。一方で、曽我さんに与えられた時間は2時間ほどだった。
「調律だけは調律師さんが定期的に行っていたようで音程は大体合っていました。私が最初に始めたのは掃除。真っ黒なフレームをピカピカな金色の元の状態に戻し、全体をきれいにしました。それから整調、整音、そして最後の10分ほどで調律。もっともアクロバティックな取捨選択でしたね」
そんな状況も、自分にしかできないことだと楽しんでいる。それは、調律師としての矜持なのだろう。
「技術面以外では、会話力が重要なスキルですね。ピアニストは、私たちが欲しい情報をなかなか的確に話してくれません。ですから、彼らがどう感じているのかを会話によって引き出していきます。ピアニストが何を望んでいるかを的確に捉え、それをピアノに反映させる。そして最終的には良いコンサートに寄与する。私がずっと心がけていることです」

調律師 曽我紀之

工場で出荷前の「CFX」の調律も

曽我さんには、コンサートチューナー以外にも重要な仕事がある。ヤマハ掛川工場のピアノの調律だ。工場内には最高峰のコンサートグランドピアノ「CFX」を生み出す「特器制作」と呼ばれる製造部門があり、各工程における選ばれしスペシャリストたちがピアノづくりに臨んでいる。
「私は整音の作業を行っています。試作品の整音も担当し、開発にも関わっていますね。新モデルが発売されても開発に休憩はありませんので、試作品への取り組みも継続しています」
加えて、調律師の大切な仕事として後身の指導を挙げた。
「教える立場の人間には、一定以上のスキルが求められます。私もヤマハピアノテクニカルアカデミーで4年ほど指導に就きましたが、教える難しさを痛感しました。一方、全国で活躍している卒業生に地方公演などで会えるのはうれしいことです」

「調律は愛」。後になってわかったその言葉

今や傑出した調律師に数えられる曽我さんだが、そのスタートラインに立つことになったのは数奇な運命がきっかけだった。
高校時代、吹奏楽に没頭しつつも、演奏家ではなく裏方の仕事に就きたいと考えていた曽我さん。エンジニアを目指して大阪から上京し、専門学校に入学する。
「1年生の夏のある日、学校に行ったら鍵がかかっていました。呆然と立ち尽くしていると、後ろから先輩に肩をたたかれ、校長が資金を使い込んで潰れたと聞かされました。ええっ~!となって、人生を一度リセットです(笑)」
そして、縁あってヤマハのピアノ調律師の養成機関、ヤマハピアノテクニカルアカデミーへ。卒業後は、技術力が認められてヤマハに入社する。一般家庭のアップライトピアノの調律からのスタートだった。
幼少時に2年ほどピアノを習っていた曽我さんは当時、家のピアノの調律の様子を飽くことなく眺めていたという。なんでも分解してしまうと父親がため息をつくほど、機械いじりが大好きな少年だった。
「ですから、調律師という仕事は自分には合っていたのでしょうね」
曽我さんには、忘れられない言葉がある。アカデミーで学んでいたときの講師の口癖「調律は愛です」。
「当時はギャグだと思っていました。でも愛がなければピアノにはそっぽを向かれるし、どうしたら演奏者に気持ちよく弾いてもらえるかを考えることも愛。現場に入って、ようやくそれがわかりました。その言葉を実感する日々です」

調律師 曽我紀之

技術はもとより、調律師にとって必要なスキルは会話力だと語る曽我さん。

Q.子どもの頃の夢は?
A.幼少時はなにも考えていませんでしたが、中学生ごろからはエンジニアですね。好きだったアリスのコンサートに行ったとき、私の席のすぐ横にあった基地のようなものに興味をひかれたんです。すると、前の席にいたおじさんが「ここでこれから聴こえてくるアリスの音を調整しとんねん」と教えてくれました。そこで初めてスゴイ仕事があるということを知って以来、目指すようになりました。

Q.趣味は何ですか?
A.ひとつは写真です。趣味が高じて、“コンサート撮影をする調律師”のような感じにもなっています。本番中、調律師は袖で待機して聴いているのですが、アーティストがとてもいい表情をしていると感じて写真を撮り始めたのがきっかけです。みなさんにとても喜んでいただき、今では仲道郁代さんの公式カメラマンのように指名されています(笑)。
また、蓄音機や懐中時計など古い機械を分解して修理するのも好きですね。機械に囲まれていると幸せです。

Q.好きな音楽は?
A.歌うのが好きで、アリスなど昭和50年代の曲を歌うこともあります。聴く音楽はジャンル問わずですが、大瀧詠一さんのファンです。ひとりスタジオに籠って音づくりをしていたと聞いていますが、その生き様や亡くなり方も含めてすごいアーティストだと思っています。
また、小曽根真さんとお付き合いさせていただくようになってからは、ジャズが好きになりました。それまでは自分には難しい音楽だと思っていたのですが、現場で彼が奏でるジャズを聴いているうちに自然とリズムが体に入ってきて、楽しくて仕方なくなってしまいました。

photo/ 坂本ようこ

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