今月の音遊人
今月の音遊人:荻野目洋子さん「引っ込み思案だった私は、音楽でならはじけることができたんです」
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学生のころから世界のあちこちを旅するなかで、無国籍なものに強く惹かれた。私にとって、それは圧倒的な自由やスケールの大きさを感じさせるものだったから。
初めて小笠原古謡を耳にしたとき、なぜだかそんな無国籍な匂いを感じた。沖縄や奄美の島唄とはまったく異なる独特の旋律やリズム。何にも似ていず、例えようも捉えようもないのにするりと入り込んでくる。
心に沁み入った。いや、そのときの気持ちは恋する感覚に似ていたかもしれない。誰だかわからない人に、いきなり心をさらわれてしまうような……。
東京から南南東へ約1000キロ。世界自然遺産に登録された今も、丸1日以上かけて船でしか訪れることができない小笠原。その玄関口である父島に初めて降り立ったとき、日本の離島とは違った雰囲気を感じた。
小笠原は英語名を「Bonin islands(ボニン・アイランズ)」という。江戸時代に使われた「無人(ぶにん)」が訛っていつしかそうなった。その名の通り、かつては無人島だったこの島に人が定住したのは、捕鯨が全盛期だった1830年のこと。欧米人やハワイの人々が父島に上陸し、寄港する捕鯨船に食糧や水などを供給して生計を立てた。その末裔たちは、今も小笠原に暮らしている。
やがて、小笠原が日本領土になった明治時代になると、日本人も小笠原に住むようになる。こうして西洋、南洋、東洋の文化が混ざり合い、独自のアイデンティティをもったボニンアイランダーたちが生まれることになった。なるほど、小笠原古謡が無国籍な香りをまとっているのはそのためか。
私が初めて耳にした小笠原古謡は『レモン林』というラブソング。ほかにも『パラオの五丁目』『おやどのために』などがあるが、これらは小笠原の欧米系の島民が戦後サイパンに行ったときに覚え、小笠原に伝えた唄だという。『丸木舟』という代表的な唄は、もともとカロリン諸島で歌われていたものを日本人が覚えて伝えた。いずれも歌詞は日本語だ。日本が委任統治していた時代、南洋諸島では日本教育がされていて、日本語を話す島民もたくさんいたのだ。
誰のものでもないこれらの唄は口承で歌い継がれ、やがて島民なら誰もが知る島の唄となった。定期的に披露される場こそないものの、今では小笠原で行われるイベントなどには欠かせない存在だ。
ボニンブルー──濃く深く、澄み切った小笠原の海の青色を人はそう呼ぶ。吸いこまれそうなボニンブルーの海を眺めていると、波のような旋律を持つ『丸木舟』がふと口をついて出てきた。小笠原古謡は耳で覚え、口承で伝えられてきただけあって覚えやすい。
「南の空のはて 波のはなさく島に 浮き世を遠くみて 恋をかたるふたりよ こころも丸木舟に」
ここが日本でありながら、もっというなら東京都の一部でありながら、南洋諸島とつながっていることを感じた。小笠原古謡は、異なるものを自然に受け入れ、混ざり合うことができる大らかさと柔軟さが生んだ音楽だった。その音楽は、知らない時代の見たこともない景色と誰かの思いを連れてくる。
気がつけば、繰り返し、繰り返し唄っていた。どうやら、小笠原古謡への恋は進行中らしい。
文/ 福田素子
photo/ Ogasawara Village Tourism Bureau
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