今月の音遊人
今月の音遊人:川井郁子さん「私にとっての“いい音楽”とは、別世界へ気持ちを運んでくれる翼です」
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日本のジャズ史をひもとくためのキーパーソン、井田一郎が生まれたのは東京・浅草。1894年(明治27年)のことだった。
トランペットを手にして、三越呉服店音楽部オーケストラに所属したのが1910年(明治43年)。
東京・日本橋の三越呉服店は、1909年(明治42年)に少年音楽隊を結成。パレードなどで店の宣伝をして人気を集めていた。三越が音楽隊を結成したのは時流に乗ってのことで、この当時、歓楽街には多くのブラスバンドが出現し、人気を集めていたのだ。
人気の職業となったことで人材も必要となり、市中に多くの養成所も設立されていた。貧しくて一般の学校へ進学できない子どもたちにとって、手当付きで楽器演奏を習える養成所はありがたい存在で、そこから将来の日本のジャズを支える人材が送り出されることになる。
井田一郎が三越のオーケストラに入ったのは16歳ごろ。各地を転々として育ったという彼は、子守歌代わりに耳にしていた流行の西洋音楽に興味をもち、手っ取り早く手に職を付けられて稼げる世界へと飛び込んでいったのだろう。
市中の民間バンドは、宣伝目的の演奏会のほか、社交ダンスの伴奏を手がけることも多く、井田もこうしたニーズに対応すべく、最新の音楽に携わろうとする。
そこで出逢うべくして出逢ったのが、アメリカで流行っていたダンス・ステップのための音楽、ジャズだった。
ジャズを取り入れた彼の演奏は評判を呼び、「日本の行進曲の父」と呼ばれた海軍軍楽師の瀬戸口藤吉がその噂を聞きつけてわざわざ観に来た、というエピソードもあるほど。
その後、北米航路の客船・鹿島丸での楽団員生活を送り、アメリカでの経験も加えて、1920年(大正9年)に就任したのが横浜・鶴見の花月園にできたばかりの、ダンスホールの専属バンドだった。なお、このころから彼はヴァイオリンを担当している。
前稿までに触れたハタノ・オーケストラ(花月園ダンスホールで井田が所属していた宍倉バンドの後任)が「ダンスを踊るための演奏」にフォーカスしていたのに対して、井田一郎は「ジャズにフォーカスしていた」ことがうかがえる。
本人談として、同僚のトラブルが原因で花月園から離れ、再び船の仕事に戻ったとあるが、井田一郎がめざそうとした音楽=ジャズは日本においてはまだ時期尚早で、時流に乗っただけのダンスホールという“場”では受け止めきれなかったのであろうことは想像に難くない。その後、井田は拠点を関西に移して宝塚オーケストラに加わるが、ここでも彼のジャズ志向は反発を招き、長続きしなかったからだ。
しかし、宝塚オーケストラの有志でリハーサルを重ねていた彼はジャズへの強い手応えを感じ、1923年(大正12年)に神戸でラフィング・スターズというバンドを結成する。
これが(ダンスのためにではないという意味で)本邦初のジャズ・バンドの誕生といわれている。
このバンドは関西一円の高級ホテルで開催されていたダンスパーティーでも引っ張りだこの人気だったが、井田一郎自身はここでもバンド内のトラブルで職を辞してしまう。
その後も道頓堀の松竹座オーケストラに加わったり、大阪・堺の大浜公会堂で旗揚げした大浜少女歌劇団の編曲・指揮者を務めたり、大阪・戎橋のカフェ「パウリスタ」や千日前の「ユニオン」でレギュラーをもつなど、「ジャズバンドなら井田一郎」といわれるほどの立役者となったが、生来のバンドマン気質なのだろうか、どれもトラブルを招いて長続きせず、“業績”とするには足りない活動だったことは惜しまれる。
まあ、それも「ジャズに魅せられた人らしい」といえば、そうなのだが……。
参考:内田晃一『日本のジャズ史=戦前・戦後』スイング・ジャーナル社
富澤えいち〔とみざわ・えいち〕
ジャズ評論家。1960年東京生まれ。学生時代に専門誌「ジャズライフ」などでライター活動を開始、ミュージシャンのインタビューやライヴ取材に明け暮れる生活を続ける。2004年に著書『ジャズを読む事典』(NHK出版生活人新書)を上梓。カルチャーセンターのジャズ講座やCSラジオのパーソナリティーを担当するほか、テレビやラジオへの出演など活字以外にも活動の場を広げる。専門誌以外にもファッション誌や一般情報誌のジャズ企画で構成や執筆を担当するなど、トレンドとしてのジャズの紹介や分析にも数多く関わる。『井上陽水FILE FROM 1969』(TOKYO FM出版)収録の2003年のインタビュー記事のように取材対象の間口も広い。2012年からYahoo!ニュース個人のオーサーとして記事を提供中。
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