今月の音遊人
今月の音遊人:寺井尚子さん「ジャズ人生の扉を開いてくれたのはモダン・ジャズの名盤、ビル・エバンスの『ワルツ・フォー・デビイ』」
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連載1[多様性とジャズ]ジャズはなぜ20世紀に求められたのかを“個人主義”という視点で考えてみると……
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2022.1.24
前稿までの連載で、ジャズがどのように成長して広まっていったかを、発祥の地であるアメリカと、それを“輸入”した日本との違いにフォーカスしながら論じてきた。
もともと、ジャズには“雑食性”という強みがあり、その柔軟性ゆえに異分子をも呑み込みながら増殖を続けることができたとボクは考えていたのだけれど、それを確かめる論考になったと思っている。
すると、こうした“雑食性”や“柔軟性”は、言い換えれば“多様性”であり、その点においてジャズは時代をかなり先取りした芸術形態だったのではないか──ということを検証しないわけにはいかなくなった。
というのも、大枠ではこの“多様性”を当てはめることができるジャズではあるものの、狭義では、直近の半世紀を振り返ってもスウィングやビバップといった“原理”にこだわることを繰り返していた事実があり、必ずしも“多様性”を軸として発展した芸術形態とは言えないのではないかという疑念が、どうしても脳裏をよぎってしまうからなのだ。
「“ジャズは自由の国アメリカで生まれた”ので“自由の国アメリカを象徴する芸術である”」という演繹法のワナにハマって、「ゆえにジャズは(選択の自由という)多様性を表現できる」という答えを出してしまいそうになったとき、「果たしてそれは本当なのか?」という問いが浮かんで消せなくなってしまった。
ボクは、ジャズが20世紀を象徴する表現芸術と評されるまでに発展した大きな理由に、資本主義の台頭による家族主義から個人主義への移行と、その一方で暴走していった権威主義や全体主義といった社会背景が関係していて、ジャズは個人の自由を担保する受け皿としての役割を(ロックに取って代わられるまで)意識的に担ったのではないかと考えていた。
まぁ単純に言えば、権威主義的なクラシック音楽への反発や、全体主義による締め付けへの対抗手段としての期待を、自由度を高めていこうとしていたジャズに重ねようとしていたんじゃないかと考えていたわけだ。
だから、“ジャズ事始め”の連載が一段落したところで、ジャズと個人主義、ひいては多様性について改めて考えてみたいと思っていた。
まず、個人主義から手をつけようと思うのだけれど、思想のシステム論を解説するのが本意ではないので、ジャズを忘れないようにしながら論考を進めてみたい。
オーネット・コールマンの『ジャズ来〔きた〕るべきもの(The Shape of Jazz to Come)』(1959年)でも聴きながら、次回の準備をすることにしようかな。
富澤えいち〔とみざわ・えいち〕
ジャズ評論家。1960年東京生まれ。学生時代に専門誌「ジャズライフ」などでライター活動を開始、ミュージシャンのインタビューやライヴ取材に明け暮れる生活を続ける。2004年に著書『ジャズを読む事典』(NHK出版生活人新書)を上梓。カルチャーセンターのジャズ講座やCSラジオのパーソナリティーを担当するほか、テレビやラジオへの出演など活字以外にも活動の場を広げる。専門誌以外にもファッション誌や一般情報誌のジャズ企画で構成や執筆を担当するなど、トレンドとしてのジャズの紹介や分析にも数多く関わる。『井上陽水FILE FROM 1969』(TOKYO FM出版)収録の2003年のインタビュー記事のように取材対象の間口も広い。2012年からYahoo!ニュース個人のオーサーとして記事を提供中。
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文/ 富澤えいち
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