今月の音遊人
今月の音遊人:今井美樹さん「私にとって音楽は、“聴く”というより“浴びる”もの」
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クラシック音楽に癒された経験がある人は少なくないだろう。しかし、本書の著者はこう語る。「『クラシックが癒されます』などと宣伝するのは、ステーキハウスが『当店はデザートが自慢です』というようなもので、どこか違うのではないか。ステーキハウスなら肉の美味しさを自慢すべきだ」。では、王道は何かといえば、「怖い音楽」なのだという。そして、そこにこそ美が宿るのだ、と。
本書はタイトル通り、「怖い」をキーワードに、西洋音楽の200余年を綴った音楽史だ。父、自然、狂気、死、神、孤独、戦争、国家権力──これら8つの恐怖を切り口に各章が構成され、音楽家たちがいかにこれらと格闘し、名曲をつくり上げてきたかを紹介する。
取り上げられているのは、モーツァルト、ベートーヴェン、ベルリオーズ、ショパン、ヴェルディ、ラフマニノフ、マーラー、ヴォーン=ウィリアムズ、ショスタコーヴィチら歴史に名を刻んだ大音楽家。ときに恐怖が彼らの創作の源泉となり、現在の名曲をつくり上げていく様に、ページを繰る手が止まらなくなる。
たとえば、かのモーツァルト。彼こそが、「怖い音楽」の創始者だ。「怖い音楽」や「哀しい音楽」など誰も求めていなかった時代、モーツァルトはオペラ『ドン・ジョヴァンニ』において祝祭的なオペラのイメージを一新し、初めて「心地よくない音楽」を誕生させた。古典派音楽の旗手であるモーツァルトは、ロマン主義時代へと続く音楽史に「怖い音楽」の種を撒くことになる。
だが、彼は時代に早すぎた。人々が心地よい音楽に満足しなくなるのは、モーツァルトの14歳年下のベートーヴェンが、『交響曲第5番』(通称『運命』)と『第6番』(通称『田園』)という2つの「怖い音楽」を披露してからだ。
難聴のために自殺を考えたものの、踏みとどまり、人間の最大の恐怖である死を克服した彼が恐れたものとは……。
そして、時代が変われば、恐怖との格闘のしかたも異なる。19世紀までの「怖い音楽」は、先に「怖いもの」があり、それを音楽で表現したものだった。ところが、マーラーやラフマニノフが活躍する20世紀は、具体性を持たない「怖い音楽」に変質する。彼らがどんな恐怖を表現したのか、それは本人にしか、あるいは本人にすらわからないというが、どこまでも陰鬱で暗く重く、そしてメランコリックな「怖い音楽」を書いた。
さらに、スターリン体制下の旧ソ連では、ショスタコーヴィチが「怖い音楽」を奏でた。彼の創作人生には常に国家権力という恐怖がついてまわり、当局の目を掻い潜るかのような隠喩的音楽を残している。
従来の音楽家評伝にはなかった異色の切り口で、クラシック音楽の近代史をたどることができる一冊。音楽家同士の接点や交流も興味深い。本書を読んでから聴く名曲の数々は、ひと味違ったものに感じられるに違いない。
『怖いクラシック』
著者:中川右介
発売元:NHK出版
発売日:2016年2月10日
価格:820円(税抜)
詳細、ご購入は「ヤマハミュージックWeb Shop」サイトをご覧ください。