今月の音遊人
今月の音遊人:村治佳織さん「自分が出した音によって聴き手の表情が変わったとき、音楽の不思議な力を感じます」
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ダニエル・バレンボイムほど並外れた音楽的才能を持ち、かつ率直で力のある政治メッセージを発することのできる音楽家は、現代において稀だろう。
1999年、ユダヤ人のバレンボイムは、パレスチナ系アメリカ人の文学批評家エドワード・サイードと共にウェスト=イースタン・ディヴァン管弦楽団を結成した。長年政治的に対立するイスラエルとヨルダン、レバノン、シリアなどアラブ諸国の音楽家から成るこのオーケストラの活動を通じて、彼が「共存の架け橋」という理念を実践してきたことはよく知られている。
そのバレンボイムが今並々ならぬ情熱を注いでいるのが、ベルリンに新しく創設される「バレンボイム・サイード・アカデミー」だ。本拠地となるホールの建設が始まるのに合わせ、この度記者会見が行われた。
2016年に第1期生が入るこのアカデミーでは、奨学生として選ばれた中東出身の若き音楽家たちが3年間ベルリンで学ぶ機会を与えられる。昨年1月、バレンボイムは朝日新聞のロングインタビューに応じているが、そこで語られている内容は新しいアカデミーの理念そのものと言っていいだろう。
「音楽こそが、あらゆる異分子を調和へと導く希望の礎です。音楽家は政治に何の貢献もできないが、好奇心の欠如という病に向き合うことはできる。好奇心を持つということは、他者のことばを聞く耳を持つということ。相手の話を聞く姿勢を失っているのが今日のあらゆる政治的な対立の要因です」
ドイツ政府はこのプロジェクトを「中東和平のためにドイツとして貢献できる」と評価し、アカデミーの本拠地の建設費用3400万ユーロのうち、2000万ユーロを出資。今後も財政的に援助していくことを発表している。
会見の翌日、地元紙の一面に掲載されたバレンボイム・サイード・アカデミーの斬新なホールのデザインに私は目を見張った。バレンボイムが音楽監督を務めるベルリン国立歌劇場(現在改装中)の裏手にある、1950年代に建てられた劇場の収蔵庫を大改造し、リハーサル室、事務所、カフェ、そして622席のホールからなる彼らの拠点が生まれる。楕円の形をした上下2層の客席が中央の舞台を囲むホールは、バレンボイムとも親交の深いスター建築家のフランク・ゲーリーが「無償で」設計したそうだ。豊田泰久が音響設計をするのも注目される。
先のインタビューでバレンボイムはこう語っている。
「私は音楽を利用し、何らかの政治的合意を達成しようとしているわけでも、争う者同士を結びつけようとしているわけでもありません。『敵』とみなしている者同士を、まずは『人間』として向き合わせる。そのための素朴な試みに、音楽の可能性を賭けたいのです」
今から25年前、壁の崩壊によって東西の対立を克服したベルリンで、今度はどのような対話が言葉と音楽を通してなされるのだろう。バレンボイムが「人間の感情で最も大切なもの」と語る「好奇心」を持って完成を待ちたいと思う。