今月の音遊人
今月の音遊人:小野リサさん「ブラジルの人たちは、まさに『音で遊ぶ人』だと思います」
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古くは“浪速”と表記されていた大阪は、7〜8世紀には都が置かれたこともあったなど、日本における要所として発展する“地の利”のある土地柄だった。
これには、大阪湾が瀬戸内海航路の港として好位置にあったこと、長く都が置かれた京都に近かったことが関係している。
どちらかといえば政治的よりも経済的な利点を見抜いたのは豊臣秀吉で、彼が大坂城を築いたのは1583年のこと。
徳川政権下では幕府こそ関東に置かれることになったものの、“天下の台所”と呼ばれる日本経済の中心地としての役割を担うことになる。
明治維新後、一時は近代化の波に呑まれて没しそうになるも立て直し、大正末期には市域の拡張もあって東京の人口を抜くほどにもなった。
この人口増加の背景には、前回に触れた関東大震災にともなう関東からの人口移動も大きく関係していたようだ。甚大な被害を目の当たりにして東京に見切りをつけた人々が、続々と関西方面へ移り住んできたのである。
そのなかには、羽振りのいい貿易商人や商社員、そして文化人たちも大勢いたことから、大阪の夜の盛り場がさらに盛り上がることになる。
東京の歓楽街で遊んでいた人たちは、大阪でも同様に楽しめる場所を探すわけだけれど、こうしたニーズにいち早く応えようとするのが大阪の“商人の町”たるゆえんでもある。
例えば、大阪五大花街のひとつとして知られていた難波新地のバー“コテージ”では、白系ロシア人の女性と一緒に踊ることのできる社交ダンス場をしつらえ、これが大当たりしている。
余談だが、白系ロシア人とは、1917年のロシア革命後、新政権に反対して国外に亡命した人たちである。こうした紛争が文化の“かき回し役”を担うのはままあること。
さて、コテージは“日本で初めて専門ダンサーを置いた店”ということになったのだけれど、コテージの盛況を見てほかの店が黙っているはずもない。
1924年(大正13年)には、戎橋や千日前にダンスホールをしつらえたカフェーが続々と誕生。3年ほどのあいだに市内のダンスホールは20カ所にもなっていたという。
こうした“急ごしらえ”であることも理由だったのだろうが、ダンスのための音楽演奏は、主にレコードを蓄音機で再生する方法によっていた。ところが、競合が増えると特色を出すために“専属バンドによる生演奏”を売り物にするホールも出てきたのである。
こうした“大阪ダンスホール文化”を担う音楽演奏=ジャズを先頭で支えた人物がいた。
前回までに触れた横浜・鶴見の花月園舞踏場で、最初の専属バンドの一員だったヴァイオリン奏者、井田一郎だ。
次回は、井田一郎が活躍した大阪のジャズ・シーンを眺めてみたい。
参考:内田晃一『日本のジャズ史=戦前・戦後』スイング・ジャーナル社
富澤えいち〔とみざわ・えいち〕
ジャズ評論家。1960年東京生まれ。学生時代に専門誌「ジャズライフ」などでライター活動を開始、ミュージシャンのインタビューやライヴ取材に明け暮れる生活を続ける。2004年に著書『ジャズを読む事典』(NHK出版生活人新書)を上梓。カルチャーセンターのジャズ講座やCSラジオのパーソナリティーを担当するほか、テレビやラジオへの出演など活字以外にも活動の場を広げる。専門誌以外にもファッション誌や一般情報誌のジャズ企画で構成や執筆を担当するなど、トレンドとしてのジャズの紹介や分析にも数多く関わる。『井上陽水FILE FROM 1969』(TOKYO FM出版)収録の2003年のインタビュー記事のように取材対象の間口も広い。2012年からYahoo!ニュース個人のオーサーとして記事を提供中。
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