今月の音遊人
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連載20[ジャズ事始め]ジャズは自分にとってなんなのかを追求した日本人・穐吉敏子の答え
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2020.9.16
1956年(昭和31年)初頭、穐吉敏子はバークリー音楽大学ヘ入学するため日本を飛び立った。彼女を乗せた四発プロペラ機(プロペラエンジンが両翼に2基ずつ配置された旅客機)が米ボストンのローガン空港に到着したのは、日曜日の夜更け過ぎ。
当地ジャズ界のお歴々に出迎えられた穐吉は、その足で著明なジャズクラブ“ストーリーヴィル”へ向かうことになる。
この週の出演者はバド・パウエル・トリオで、日曜の夜はその最終日。穐吉がバド・パウエルを“私の英雄”と敬愛してやまないことを知っていたクラブ・オーナーのジョージ・ウィーンが、出迎えた流れで彼女をそのまま連れて行ったようだ。
日本ではジャズ喫茶に通うなどして、レコード(LP盤)を介して「私のせいで一部分だけすり減ったLPが大分増えた」というほど(採譜のために)聴き込んでいた憧れのバド・パウエルの生演奏に触れ、留学先であるボストン初日に遭遇できた印象を、「一生、私にとってはやはり忘れられない」(引用:NHK人間講座・秋吉敏子「私のジャズ物語 ロング・イエロー・ロード」日本放送出版協会刊)と書き記している。
このときのドラマーが、朝鮮戦争で召集され日本に駐留していた折に彼女と共演したことがあるエド・シグペンだったこともあり、休憩のときにバドに紹介される。するとバドは、ピアノを弾いてみせろと彼女を促したという。
「(「チュニジアの夜」を弾く穐吉の)後ろでバドが大声で笑っているのが聞こえました。今では及びもつかないことかもしれませんが、当時は日本人がジャズを演奏するということを知ることだけでも(アメリカ人にとっては)ちょっとした驚きだったのです。ましてや女性となると、これはものすごい驚きだったようです。演奏を終えてステージを下りると、バドは深くおじぎを私に向かってしました」(引用:前掲書。カッコ内追記は筆者)
穐吉はこのとき、彼女の才能に対するバド・パウエルの畏敬を感じたようだ。しかしボクは、その根底に“人種差別”や“性差別”という前提があったことを感じざるを得ない。なぜなら、だからこそ彼女はその後、ジャズの最前線ヘ身を置くために訪れたアメリカで、それらと闘いながら、自分にとってのジャズを探すことになるのだから──。
アメリカで黒人公民権運動が盛り上がりを見せ、この問題がほんの少しだけ変化したのは1960年代半ばのことなので、これよりおよそ10年後。
「私は戦後、非常識で混沌としていた日本の社会で、ちょっとしたきっかけで音楽界に入り、ジャズに魅かれました。十六歳だった私は、誰かの本にあったように『アメリカ進駐軍の政策の片棒を担いでいる』などという意識は全然なしにジャズという音楽にのめり込み、ジャズの中で人間としての成長を続けました。ですから、私はためらいなしに『ジャズは私のものであり、私の存在そのもの』ということが出来ます。では、私はジャズにとって何なのでしょう」(引用:前掲書)
穐吉敏子の答えは、彼女の作品に色濃く反映されているので(例えば日本語を使ったタイトルや、「ミナマタ」「ヒロシマ」といった日本人にとって重いテーマ性をもった曲など)、ぜひ聴いてみていただきたい。
参考:穐吉敏子『ジャズと生きる』岩波新書
富澤えいち〔とみざわ・えいち〕
ジャズ評論家。1960年東京生まれ。学生時代に専門誌「ジャズライフ」などでライター活動を開始、ミュージシャンのインタビューやライヴ取材に明け暮れる生活を続ける。2004年に著書『ジャズを読む事典』(NHK出版生活人新書)を上梓。カルチャーセンターのジャズ講座やCSラジオのパーソナリティーを担当するほか、テレビやラジオへの出演など活字以外にも活動の場を広げる。専門誌以外にもファッション誌や一般情報誌のジャズ企画で構成や執筆を担当するなど、トレンドとしてのジャズの紹介や分析にも数多く関わる。『井上陽水FILE FROM 1969』(TOKYO FM出版)収録の2003年のインタビュー記事のように取材対象の間口も広い。2012年からYahoo!ニュース個人のオーサーとして記事を提供中。
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