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【クラシック名曲 ポップにシン・発見】(Phase52)フォースター「ハワーズ・エンド」の音楽、20世紀初頭の英国コンサート、小説に聴くベートーヴェン、ブラームス、エルガー
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2025.7.24
tagged: フォースター, 音楽ライターの眼, ベートーヴェン, クラシック名曲 ポップにシン・発見, ハワーズ・エンド
英国の作家E・M・フォースターの長編小説「ハワーズ・エンド」は20世紀初頭のロンドンでのクラシック・コンサートを描いている。曲目はベートーヴェン「交響曲第5番」、ブラームス「4つの厳粛な歌」、エルガー「威風堂々」など。富裕なシュレーゲル姉妹が、貧しい英国人青年レナード・バストと出会う場面だ。クラシック音楽をめぐる人間模様からはビートルズ以前の階級社会・英国の実態が見える。
20世紀前半の英国文学の中でフォースターはジェイムズ・ジョイスやヴァージニア・ウルフのモダニズムに比べて地味で保守的な作風と見られがちだ。代表作「ハワーズ・エンド」もジェイン・オースティンの「自負と偏見」やトマス・ハーディの「日陰者ジュード」を思わせるリアリズム小説。しかしフォースターは最近見直され、存在感を高めている。富裕層と下層中流の壁を越えて結び合おうとする人々を描く「ハワーズ・エンド」が現代人の経済格差の問題意識に合致するのだろう。
「ハワーズ・エンド」は吉田健一訳が定番だったが、2025年1月に光文社古典新訳文庫から読みやすい浦野郁訳が出た。「結び合わせることさえできれば……」(浦野訳)というエピグラフは、現代人にどれだけ響くだろうか。人々を階層に分けておいて「結び合わせたい」と言うのは偽善的とも捉えられかねない。個人が家庭の経済力を理由に能力を発揮できなければ、進学や人材育成、公正な自由主義経済に支障を来す。
階級社会の英国では「結び合わせる」ことが願いだったとはいえ、フォースターの描き方には不快な「上から目線」もある。例えば、シュレーゲル姉妹らが夕食会で自分の資産をどう処分するか討論する章。教養を身に着けようと努力している貧しい事務員「バストさん」を題材にし、衣料や金銭を施そうと意見を交わす。資産がないというだけで人を侮りすぎで、時代の限界を感じる。そのレナード・バスト青年が通うのがクラシック・コンサートだ。
シュレーゲル姉妹と弟がレナードと出会ったのはロンドンのクイーンズホールでの安価なコンサート。曲目はベートーヴェンの「交響曲第5番ハ短調Op.67《運命》」。姉妹らの亡父は英国に移住したドイツ人だが、英国を訪れたドイツ人のいとこが「本物のドイツ人」としてのベートーヴェンに心酔するなど、当時のベートーヴェンとドイツへの人々の崇拝ぶりをうかがわせる。
各人の音楽の聴き方についての説明も興味深い。妹は英雄や難破船を思い浮かべるなど、音楽に意味を与えて文学作品にしてしまう。姉は音楽を音楽として聴き、対位法に精通する弟は総譜を広げて分析的に聴く。姉はワーグナーを批判し、姉妹の叔母はドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」を薄っぺらな音楽だと言って嫌う。音楽談義の中で、レナードは自分にもっと教養があればと思いつつ、恐れをなして退散する。
レナードはアパートに帰ると、音楽や文学に無関心の婚約者を前にピアノでグリーグの小品を弾く。コンサートで出会った人たちを思い出しつつ、芸術や教養への憧れがにじみ出る場面だ。芸術音楽が宮廷や貴族、富裕層ではなく、教養を身に着けたい多くの人々によって支えられていく時代の到来をこの小説は捉える。単なる娯楽ではなく、教養を育んで人間的に成長したい個人の真摯な姿勢、教養主義がクラシック音楽を広める推進力になる。
「ハワーズ・エンド」のコンサートにはほかにも興味深い点がある。メンデルスゾーン作品(曲名なし)の後、ベートーヴェン「交響曲第5番」。その後にピアノとバリトン独唱によるブラームス「4つの厳粛な歌Op.121」が続く。さらにエルガー「威風堂々」。オーケストラ作品の合間にピアノ伴奏の歌曲というのは今日では珍しい。ブラームスやエルガーは当時の「現代音楽」であり、クラシック音楽鑑賞の同時代性が今より強かったことを示す。
シュレーゲル家の姉やいとこはエルガーの「威風堂々」のような英国音楽を嫌ったり見下したりする。ドイツを中心とする芸術音楽の価値を知っているという自負心だろう。だがエルガーやビートルズの音楽的価値を追求するのも立派な教養主義や鑑賞芸術である。クラシック・コンサートにはレナード青年が欠かせない。経済的理由で青年がクラシック音楽を聴けなくなる状況はあってはならない。
池上輝彦〔いけがみ・てるひこ〕
音楽ジャーナリスト。日本経済新聞社シニアメディアプロデューサー兼日経広告研究所研究員。早稲田大学商学部卒。証券部・産業部記者を経て欧州総局フランクフルト支局長、文化部編集委員、映像報道部シニア・エディターを歴任。音楽レビュー、映像付き音楽連載記事「ビジュアル音楽堂」などを執筆。クラシック音楽専門誌での批評、CDライナーノーツ、公演プログラムノートの執筆も手掛ける。日経文化事業情報サイト「art NIKKEI」にて「聴きたくなる音楽いい話」を連載中。
日本経済新聞社記者紹介
文/ 池上輝彦
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