今月の音遊人
今月の音遊人:櫻井哲夫さん「聴いてくれる人が楽しんでくれると、自分たちの楽しさも倍増しますね」
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テクノロジーで音楽文化や社会に変容をもたらす/音楽技術研究者の仕事
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2025.8.28
楽器からオーディオ製品、空間までヤマハの独創的なものづくりを支えている最新技術。多岐にわたるそれらは、どのようにして開発され、活かされているのだろうか。ヤマハで最先端の音楽技術研究をしている前澤陽さんに話を聞いた。
「僕が所属している研究開発統括部は、あらゆるヤマハ製品における必要な技術を研究し、開発することをミッションとしている部門です」
音源・音響処理などのデジタル技術、音をより多面的に計測する計測技術やシミュレーション技術、素材加工技術やエレクトロニクス技術などその内容は幅広い。
「これらを用いて“よい音”や“よい音響空間”を追求していくわけですが、一方で“よい音”は人間の感性と深く関わっています。ですから、その感性の研究もしています」
前澤さんが主に担当しているのは、楽器と人間を結ぶインターフェースの分野。インタラクションやAIを活用した技術の研究・開発に取り組んできた。
その革新的な技術のひとつが、AI合奏技術だ。AIが、人が演奏している音とその曲の楽譜をリアルタイムで照らし合わせ、演奏のスピードや抑揚までを解析して奏者の演奏にタイミングを合わせて合奏する。
この技術を活用した演奏アシストシステム「だれでもピアノ」も前澤さんが手がけたもの。奏者がピアノの鍵盤でメロディーを弾くと、それに合わせて伴奏とペダルが自動的に追従して演奏をアシストする。
2023年12月には、これを用いたコンサートイベント「だれでも第九」が開催され、障がいのある3人のピアニストがオーケストラと合唱団とともにベートーヴェンの『第九』を披露した。
「あのステージは、深く印象に残っています。どんな方でも、演奏を生み出す輪のなかに入ることができる。AIが社会に寄与できる可能性を感じました」
現在は「だれでもピアノ」の機能の一部を体験できるアプリ(ベータ版)を公開している。まさに、“だれでも” ピアノを通して自分の想いや感情を表現することができるアプリだ。
さらに、ユーザーの演奏に合わせてボーカルパートが歌ってくれるアプリ『piano evoce β』など前澤さんはアプリ開発にも多く関わっている。

ピアニストでYouTuberのよみぃさんが2022年に行ったZeppツアーでは「AI合奏技術」を用いて、よみぃさんとAIとのコラボが行われた。
前澤さんの大学での専攻は知能情報学。大学や大学院時代から、機械に音楽を理解させる研究を進めてきた。一方で、幼いころからバイオリンを習い、音楽大学への進学も考えたほど。
「願書の締め切りを勘違いしていて、気づいたときにはもう過ぎていて(笑)」
ヤマハ入社後は、大学・大学院時代の研究を応用し、楽曲のコードやテンポを自動解析・表示解析できるアプリの開発に携わった。
「AI合奏技術の開発を始めたきっかけは、自分の欲望を満たすためでした(笑)。入社後、浜松に引っ越し、それまで一緒にやっていたメンバーと演奏する機会が少なくなりました。バイオリンをソロで弾くとき、ピアノ伴奏があったらいいなと考えたのがそもそもの発想です」
そして、何とわずか2日間でプロトタイプを制作してしまう。その後、2016年にはスヴャトスラフ・リヒテル(1915-1997年)の演奏を自動演奏ピアノ「Disklavier(ディスクラビア)」で忠実に再現するとともに、ベルリンフィル・シャルーンアンサンブルの演奏に合わせてその演奏を柔軟に変化させ、息のあったアンサンブルを奏でることに成功した。
「自然な挙動で合わせてくれるエンジンをつくっていたのですが、数式を変えては試奏することを一日中繰り返し、まさに数式の千本ノックのような日々でした」
2019年のプロジェクト「Dear Glenn」では、新たに開発した方法で学習したAIが、1982年に没したグレン・グールドらしい演奏データを未演奏曲であっても瞬時に生成し、「Disklavier」に演奏させた。このプロジェクトは「カンヌライオンズ国際クリエイティビティ・フェスティバル」でエンターテインメントライオンズ・フォー・ミュージック部門の「シルバー」を受賞するなど大きな注目を集めた。
「表現のエッセンスや本質は、何にあるのだろう。それを情報処理という技術やAIという道具を通じて解明していくのが面白いと思って取り組みました。演奏に対するたくさんの気づきを得られましたね」

現在、前澤さんは2024年に新設された研究開発拠点「ミナラボ (MINA Lab: Music Informatics and New Applications Laboratory)」の所長を務めている。ミナラボは、ヤマハにおける楽器・音楽に関する情報学のスペシャリストが集まり、音楽情報処理を中心とした研究開発を推し進める精鋭チームだ。
「細かな技術はいろいろつくっていて、どのシステムを組み合わせればどこで役立つのかを考え、イベントなどで検証するということもやっています」
たとえば、「ヤマハミュージック 横浜みなとみらい」のエクスペリエンスゾーンに設置されたAI伴奏付きのピアノ「AI Duo Piano」。ピアノに触れたことがない初心者でも光のガイドが次に弾く音を導き、その演奏に合わせてAIが伴奏を奏でる。
「どう光らせれば、意図したタイミングで弾いてもらえるのか。自分が主体的に演奏しているという実感を持ってもらえるのか。いろいろな人に体験してもらうことで、その指標を計算することができます」
演奏における身体性にも注目している。楽器演奏における動作をより深く理解するため、演奏中のさまざまなデータを記録し、分析することも前澤さんの仕事のひとつだ。
さらに2025年の夏、技術とコンテンツをセットにしたプログラムを実験的にスタートした。
「従来の音楽プログラムは音楽経験がある人がそばにいることが前提となっていましたが、それがない状態で音楽演奏を楽しむ実証実験を始めています。夏休み期間中に、横浜市の放課後キッズクラブとコラボして電子ピアノとだれでもピアノを使い、みんなで楽しむというプログラムを実施します。音楽の普及をするためにテクノロジーを使うわけですが、そのための必要条件や要素を特定していくという活動を進めているところです。パートナーも受け付けているので、興味がある学校、企業、研究者さんがいたら、ぜひお声かけいただけるとうれしいです」

こうしたプロジェクトが、いくつも並行して進むことは当たり前。その原動力を尋ねると、明快な答えが返って来た。
「楽しいから、ですね」
自分の仮説を検証していくのが楽しい。自分がつくったもので誰かが喜んでいる姿を見るのが楽しい。世の中にまだ今までなかった新しい体験をつくったことを実感するのが楽しい──。研究に打ち込んでいた学生時代とまったく変わらない気持ちを抱いているように映るが、実際は少し違うようだ。
「自分主体の興味から、文化や社会に変容を及ぼすためのテクノロジーのあり方に関心が移っていっていると思います。つまりテクノロジー主体というよりも、それをどうアレンジすれば音楽人口が増えたり、文化が変わったりするのかということです。もうひと押しができれば楽器を始める人や続ける人は今よりも多くなるはずです。また、最近は生成AIなどの影響で、音楽を生み出す行動が受動的になっていると感じています。でも、音楽の楽しさの根源は楽器演奏などを通じて能動的、主体的に関わることにあると思うんです。最近は、その重要性がより高まっている気がします。こうした状況の中で、テクノロジーが何かお手伝いできたらいいですね」
もうひとつ、今後取り組んでいきたいことがある。ミナラボのデータ計測システムではピアノの演奏音だけではなく、椅子にかかる重心や鍵盤・ハンマーの軌跡など演奏を多面的に可視化することができる。
「データを使い、自分自身の演奏を理解して改善方法を自分で編み出していく。そういった新しいピアノの技術獲得をトッププレーヤーの方や興味がある大学と一緒にやっていきたいです」
果てしないポテンシャルとともに、音楽技術研究者である前澤さんの仕事は続く。

ヤマハの研究開発拠点「ミナラボ」にて
Q.子供の頃、なりたかった職業は?
幼稚園のころは、忍者になりたいと思っていました。親いわく、「よくいなくなっていた」そうで、冒険するのが好きなタイプだったのだと思います。小学生のときに電車通学していたのですが、あるときふだん使っている線とは別の線に乗ってみようと思い立ったことがありました。でも、路線が複雑でなかなか自宅最寄り駅に戻ってくることができないまま夜8時に。駅員さんに助けてもらい、家に帰ってこっぴどく怒られた記憶があります。高校生のときにはバイオリン演奏や作曲、シンセサイザーの開発、音楽テクノロジー関係など何か音楽に関わる仕事をしたいと考えていました。
Q.趣味は?
電気工作が好きです。最近は5歳の娘のために、いろいろなセンサーやマイコンをくっつけてランダムに走る“追いかけロボット”をつくりました。あとはPerfumeのライブを見て照明演出に興味を持ったようだったので、ミッフィーの人形をぱちぱちと照らすシステムのようなものもつくりました。でも、娘は折り紙に夢中です。
Q.好きな音楽は?
バイオリンは今でもたまに演奏しますが、ひたすらバロックが好きです。最近はバロックの奏法に関する文献を読み漁ったり、IMSLP(国際楽譜ライブラリープロジェクト)にある昔の人のメソッドを読んだりして、こんなふうに弾いていたのかなと妄想して楽しんでいます。
Q.座右の銘は?
『The Element of Style』というライティング(文章)の指南書があるのですが、そのなかの「Vigorous pen is concise」という言葉が好きです。訳すと「勢いのある筆は簡潔である」。不要な言葉を徹底的に削っていくことで、あらためて自分が言いたかった本質が見えてくる。論文を書くときにも、それを心がけています。
文/ 福田素子
photo/ 宮地たか子
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tagged: オトノ仕事人, だれでもピアノ, 研究開発, AI合奏技術, Dear Glenn, ミナラボ
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