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楽器の帝王が見せる豊かな表情、弱音も嘆きも描き出す懐の深さ/ホーカン・ハーデンベルガー トランペット・リサイタル
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2025.9.25
tagged: イム・スヨン, トランペット, ヤマハホール, 音楽ライターの眼, ホーカン・ハーデンベルガー
トランペットは交響曲や管弦楽曲のクライマックスを制する楽器の帝王である。ヒロイックで輝かしい響きに聴き手は心酔する。そんな楽器の帝王が弱音や嘆き、優しさや悼みの表情も見せるとは。2025年6月30日に東京・銀座のヤマハホールで開かれた「ホーカン・ハーデンベルガー トランペット・リサイタル」では、当代一流のトランペット奏者が表情豊かな音色で人生のあらゆる感情を描き出す、懐の深い演奏を聴かせた。
スウェーデン生まれのホーカン・ハーデンベルガーと韓国のピアニスト、イム・スヨンによる共演。2人は2018年にヤマハホールで初共演を果たした。今回はトランペットとピアノのデュオにそれぞれのソロを組み込んだプログラム。トランペットは歌手で言えば、華やかで張りのあるヘルデン・テノール(英雄的でドラマティックなテノール)、オペラの帝王だろう。そんな帝王がピアノと意気投合する様子は、破格のリート(歌曲)演奏会のようだ。
1曲目はパウル・ヒンデミット『トランペット・ソナタ 変ロ調』。第1楽章では、歪んだ行進曲のリズムを刻むピアノとともに、いきなりトランペットが力強く鳴る。トランペットは行進曲にぴったりだと実感させる。だが1939年作曲のこのソナタは一筋縄ではいかない。ユダヤ人を擁護しナチスに脅迫され、米国に亡命することになるヒンデミットの複雑な胸中をハーデンベルガーのトランペットはきめ細かに彩色していく。きらびやかな音色ながらも苦渋に満ちた響きだ。

第1楽章第2主題に入る直前の3連符の動機はトランペットらしいファンファーレ風だが、落ち着きのない不穏な音色を出していた。ピアニッシモから変ロと変ニの短3度音程を繰り返し、フォルティッシモで二調に転調した第1主題へと至るクレシェンドは印象深い。不安な表情が刻々と変化し、最後には無垢な子供が泣き出したかのように緊張感が上がったからだ。
作品の内容表現だけでなく、演奏技術にも注目すべきだ。ヒンデミットのソナタにはさりげなく超絶技巧が散りばめられている。諧謔的な第2楽章ではトランペットのシルクのように滑らかな弱音、驚くほど長い持続音が奏でられる。それらは正確で安定感がある。第3楽章では嘆きの暗鬱なファンファーレを吹奏する。そんな黄昏の挽歌からも、ハーデンベルガーの包容力は希望の響きを引き出していた。
2曲目、ノルウェーの現代作曲家ロルフ・ヴァリーンの『エレジー』では穏やかで物悲しい追悼の美旋律を奏でる。ジャンルを超えて聴き手を癒す静かなトランペットの音色を聴くうちに、マイルス・デイヴィスがジャズの「帝王」と呼ばれることを思い出した。
3曲目はジェルジュ・リゲティ(エルガー・ハワース編)の『マカーブルの秘密』。ハーデンベルガーが「プシュッ」と息を吐く音から始まり、息を吹き込むだけのトランペット演奏、イムとの掛け声、新聞紙を丸めてズタズタにするイムの演技や「何だって」「今度は何だよ」という発声など、奇抜なパフォーマンスが満載。リゲティのオペラ『ル・グラン・マカーブル』で秘密警察「ゲポポ」の長官が民衆の反乱を告げるソプラノのコロラトゥーラ・アリアであり、編曲したハワースはこのオペラの初演指揮者。デュオによる黙示録的な笑劇は本公演で最もショッキングな曲目だった。

後半はポップス系の曲でも様々な音色で聴き手を魅了した。ヒッピー文化の元祖エデン・アーベが作曲しナット・キング・コールが歌ってヒットした『ネイチャー・ボーイ』(ローランド・ペンティネン編)は、木管楽器と思えるほど滑らかでロマンチック。英国の作曲家マーク=アンソニー・ターネジの日本初演となる『オータム・オーバード』は沈鬱な雰囲気で静かに進行する。その中でトランペットの震える音色が浮かび上がり、強い印象を残した。
一転してオーストリアの作曲家ハインツ・カール・グルーバーの『ボサノヴァ』では、軽快で爽やかなデュオを繰り広げる。弱音器を付けて超高速でスケールを繰り返す場面ではハーデンベルガーの超絶技巧を実感させた。
続いてそれぞれのソロへと入った。まずイムがクロード・ドビュッシーの『前奏曲集 第1集』から『亜麻色の髪の乙女』を弾く。正統的な演奏なのは、続くジェルジュ・クルターグ『ピアノのための遊び』が始まってから分かる。その1曲目が『亜麻色の髪の乙女-怒り』だからだ。破天荒な乙女に様変わりした激烈な音楽が繰り広げられる。圧巻は最後の『無窮動』という曲。イムは白い手袋を付けて延々とアルペジオというかグリッサンドを繰り返す。飽きることのない子供の鍵盤遊びのようなグリッサンドはピアノの原初の楽しみを表していた。

次はハーデンベルガーのソロ。日本初演となるヴァリーンの『テイキング・ウィング』だ。トランペットの機能の限界に挑むかのような超絶技巧が続く。弱音器を手で押さえて人声のような音色を出したかと思うと、弱音器を付けたり外したり、超高速のフレーズを吹いたり。前半の『エレジー』とはまた異なるヴァリーンの現代音楽の側面を引き出していた。

再びデュオに戻り、マヌエル・デ・ファリャの歌劇『はかない人生』第2幕から『スペイン舞曲』は本公演の中で最もロマンチックで正統的、安定感のあるデュオだった。最後のスウェーデンの現代作曲家トビアス・ブロストレム作曲の『スプートニク』では、ピッコロ・トランペットで自在な技術を印象付けた。
アンコールがジョニ・ミッチェルの『青春の光と影(Both Sides, Now)』というのも意表を突いた。ポップスの名曲をトランペットが歌う。「本当に人生のことなんか全然分からない」という歌詞を思い浮かべ、「人生」を「音楽」に置き換えて聴くにつれ、秀演を繰り広げた2人の謙虚で前向きなアーティスト精神が伝わってきた。

池上輝彦〔いけがみ・てるひこ〕
音楽ライター。日本経済新聞社シニアメディアプロデューサー兼日経広告研究所研究員。早稲田大学商学部卒。証券部・産業部記者を経て欧州総局フランクフルト支局長、文化部編集委員、映像報道部シニア・エディターを歴任。音楽レビュー、映像付き音楽連載記事「ビジュアル音楽堂」などを執筆。クラシック音楽専門誌での批評、CDライナーノーツ、公演プログラムノートの執筆も手掛ける。日経文化事業情報サイト「art NIKKEI」にて「聴きたくなる音楽いい話」を連載中。
日本経済新聞社記者紹介
文/ 池上輝彦
photo/ Ayumi Kakamu
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