Web音遊人(みゅーじん)

渡辺貞夫がバッハの難曲に挑んだ『プレイズ・バッハ』を読み解いてみる

渡辺貞夫が2017年10月にリリースした『プレイズ・バッハ』は、そのタイトルどおり、バッハの曲を中心に取り上げたコンサート音源が収録されている。

メインの6曲は、2000年に東京・六本木のサントリーホールで行なわれたコンサートの音源で、収録されているのは「フルート・ソナタ BWV.1035」の全4楽章、「フルート・ソナタ BWV.1031」の第2楽章と第3楽章、「無伴奏フルートのためのパルティータ BWV.1013」の全4楽章、「管弦楽組曲 第2番 BWV.1067」の第7曲。そしてアンコールのブラジル・ナンバー「ポル・トーダ・ア・ミーニャ・ヴィーダ」と「カリニョーゾ」だ。

プライヴェート・コンサートの音源の2曲は、「フルート・ソナタ BWV.1033」の全4楽章と、「フルート・ソナタ BWV.1030」の第3楽章から「ジーグ」を演奏している。

このコンサートは、抽斗(ひきだし)の多い渡辺貞夫のラインナップのなかでもかなり異質なものとして、当時は受け止めていた記憶がある。

なにが異質だったのかを思い出してみると、「なぜバッハなのか」「なぜフルートの曲なのか」「なぜアンコールはブラジル・ナンバーだったのか」が浮かんでくる。

「なぜバッハなのか」は、2000年がヨハン・ゼバスティアン・バッハの没後250年だったからという理由が大きいだろう。切りのいい年なので、ほかにもいろいろとバッハがらみの企画があったのを覚えているが、ジャズとしては“いかにバッハをジャズのテイストに落とし込むか”に腐心していた時期だった。

だからこそ、日本のみならず世界を代表するジャズ・ミュージシャンである渡辺貞夫が、なんのてらいもなくバッハの楽曲をクラシックのスタイルで演奏しようとしたことは、本稿が指摘する“新たなジャズとクラシックの関係性”の原点になったとも言える。

「なぜフルートの曲なのか」については、ここに収録されているバッハの曲が難曲としても有名であり、渡辺貞夫が取り上げるにふさわしいことがまず挙げられるだろう。すなわち、余興ではないことを示すための“高いハードル”というわけだ。

そしてもうひとつ、彼はフルートも演奏しているので、曲の構造や流れを受け入れやすかったことがあったに違いない。そうなると、「なぜフルートで吹かなかったのか」という疑問が湧くかもしれないが、それはジャズ・ミュージシャンがフルート曲をフルートで演奏してもおもしろくないでしょ、という理屈じゃない説明で納得していただきたい。というか、渡辺貞夫が“フルートでバッハを見事に演奏することで世界に並ぶ”という目的を抱いていなかったことの証左でもあるかな。

「なぜアンコールはブラジル・ナンバーだったのか」は、たぶん渡辺貞夫がこの勇気ある企画をやり遂げようと思った動機に関係することだと思うのだが、そこにひとつの共通性があると言えるだろう。

「ポル・トーダ・ア・ミーニャ・ヴィーダ」と「カリニョーゾ」は、渡辺貞夫のコンサート体験がある人なら知っている、一時期から彼のアンコールの定番になっていたナンバーだ。

渡辺貞夫は渡米修業時代(1960年代前半)にボサノヴァの洗礼を受けて帰国し、日本にその最先端音楽をいち早く伝えた人物でもある。

ブラジルで生まれたボサノヴァは、アメリカのポピュラー・ソングとは異なるアプローチで“自分たちの音楽”を模索しようとしたものだった。そのヒントのひとつとして、エイトル・ヴィラ=ロボスの存在や、「ゴルトベルク変奏曲」の再評価とグレン・グールドの登場、ジャズにおけるサード・ストリームのブラジル的解釈といった“外的要因”があったはずだ。

それを肌身で感じていたからこそ渡辺貞夫は、バッハを演奏するという法外とも思える企画に“乗ろう”としたのではないか──。

スタンスの違いを曖昧にしないクールなアプローチで臨んだことにこそ、このコンサートと記録の価値があると言えるだろう。

富澤えいち〔とみざわ・えいち〕
ジャズ評論家。1960年東京生まれ。学生時代に専門誌「ジャズライフ」などでライター活動を開始、ミュージシャンのインタビューやライヴ取材に明け暮れる生活を続ける。2004年に著書『ジャズを読む事典』(NHK出版生活人新書)を上梓。カルチャーセンターのジャズ講座やCSラジオのパーソナリティーを担当するほか、テレビやラジオへの出演など活字以外にも活動の場を広げる。専門誌以外にもファッション誌や一般情報誌のジャズ企画で構成や執筆を担当するなど、トレンドとしてのジャズの紹介や分析にも数多く関わる。『井上陽水FILE FROM 1969』(TOKYO FM出版)収録の2003年のインタビュー記事のように取材対象の間口も広い。2012年からYahoo!ニュース個人のオーサーとして記事を提供中。
富澤えいちのジャズブログ富澤えいちのジャズ・ブログ道場Facebook

 

特集

今月の音遊人

今月の音遊人:藤田真央さん「底辺にある和音の上に内声が乗り、そこにポーンとひとつの音を出す。その響きの融合が理想の音です」

15283views

奏者と楽器と空間、三者がみごとに交わり、メシアンの音楽を包み込む/スティーヴン・オズボーン

音楽ライターの眼

奏者と楽器と空間、三者がみごとに交わり、メシアンの音楽を包み込む/スティーヴン・オズボーン

5349views

赤ラベルが再現!ヤマハギター50周年記念モデル

楽器探訪 Anothertake

赤ラベルが再現!ヤマハギター50周年記念モデル

11748views

楽器のあれこれQ&A

ドの音が出ない!?リコーダーを上手に吹くためのアドバイスとお手入れ方法

189451views

おとなの 楽器練習記 須藤千晴さん

おとなの楽器練習記

【動画公開中】国内外で演奏活動を展開するピアニスト須藤千晴が初めてのギターに挑戦!

8450views

カッティング・エンジニア

オトノ仕事人

レコードの生命線である音溝を刻む専門家/カッティング・エンジニアの仕事

3508views

グランツたけた

ホール自慢を聞きましょう

美しい歌声の響くホールで、瀧廉太郎愛にあふれる街が新しい時代を創造/グランツたけた(竹田市総合文化ホール)

7373views

こどもと楽しむMusicナビ

“アートなイキモノ”に触れるオーケストラ・コンサート&ワークショップ/子どもたちと芸術家の出あう街

7064views

小泉文夫記念資料室

楽器博物館探訪

民族音楽学者・小泉文夫の息づかいを感じるコレクション

10370views

ONLYesterday

われら音遊人

われら音遊人:愛するカーペンターズをプレイヤーとして再現

978views

山口正介

パイドパイパー・ダイアリー

大人の音楽レッスン、わたし、これでも10年つづけています!

7259views

ポロネーズに始まりマズルカに終わる、ショパンの誇り高き精神をめぐるポーランドの旅 - Web音遊人

音楽めぐり紀行

ポロネーズに始まりマズルカに終わる、ショパンの誇り高き精神をめぐるポーランドの旅

30918views

おとなの楽器練習記

【動画公開中】注目の若手ピアニスト小林愛実がチェロのレッスンに挑戦!

9970views

上野学園大学 楽器展示室

楽器博物館探訪

日本に一台しかない初期のピアノ、タンゲンテンフリューゲルを所有する「上野学園 楽器展示室」

20147views

イアン・ハンター

音楽ライターの眼

イアン・ハンター、84歳にしてロックンロールの道半ば。2作品がリリース

2137views

オトノ仕事人

プラスマイナス0.05ヘルツまで調整する熟練の技/音叉を作る仕事

31791views

ゲッゲロゾリステン

われら音遊人

われら音遊人:“ルールを作らない”ことが楽しく音楽を続ける秘訣

1870views

音楽を楽しむ気持ちに届ける「ELC-02」のデザインと機能

楽器探訪 Anothertake

【動画】「楽しさ」をまるごと運ぼう!「ELC-02」の分解、組み立て手順

18686views

音の粒までクリアに聴こえる音響空間で、新時代へ発信する刺激的なコンテンツを/東京芸術劇場 コンサートホール

ホール自慢を聞きましょう

音の粒までクリアに聴こえる音響空間で、刺激的なコンテンツを発信/東京芸術劇場 コンサートホール

12697views

パイドパイパー・ダイアリー

パイドパイパー・ダイアリー

もしもあのとき、バイオリンを習っていたら

5800views

エレキベース

楽器のあれこれQ&A

エレキベースを始める前に知りたい5つの基本

5320views

Kitaraあ・ら・かると

こどもと楽しむMusicナビ

子どもも大人も楽しめるコンサート&イベントが盛りだくさん。ピクニック気分で出かけよう!/Kitaraあ・ら・かると

6268views

太平洋に浮かぶ楽園で、小笠原古謡に恋をする Web音遊人

音楽めぐり紀行

太平洋に浮かぶ楽園で、小笠原古謡に恋をする

10379views