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今月の音遊人:宮本笑里さん「あの一音目を聴いただけで、救われた気持ちになりました」
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【ジャズの“名盤”ってナンだ?】#041 東西冷戦の最前線で生まれた西側エンタテインメントの真骨頂~エラ・フィッツジェラルド『マック・ザ・ナイフ~エラ・イン・ベルリン』編
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2024.7.24
tagged: 音楽ライターの眼, ジャズの“名盤”ってナンだ?, エラ・フィッツジェラルド, マック・ザ・ナイフ~エラ・イン・ベルリン
ジャズを聴き始めたころの話だから、45年ほど前のことです。
器楽演奏に惹かれてのめり込んでいった一方で、ヴォーカルにはイマイチ、ピンと来ていませんでした。
そのころにジャズ・ヴォーカルが流行していなかったかと言えばそんなことはなくて、たとえば阿川泰子さんが一世を風靡し始めていましたから、ブームを先取りして得意顔になってもおかしくないのに、乗れなかったのですから不思議ですね。
その後、ジャズの取材をする機会が増えると、「ボクはヴォーカルが苦手なので……」と選り好みするわけにもいかず、シンガーのライヴに出向くことも多くなりました。
すると、器楽演奏に惹かれたのと同じ魅力があることに気づいて、それまでジャズ・ヴォーカルに抱いていたイメージが180度変わっていったのです。
そうなると、それまで聴き逃していたジャズ・ヴォーカルの魅力を探るべく、“名盤”と呼ばれる諸作を手当たり次第に漁っていくようになりました。
本作はそのなかで出逢った、ボクの“ジャズ脳”のなかに“ヴォーカルの指標”を作ってくれた“名盤”のひとつだと思っています。
では、どこがどのように“指標”たりうるのかを考えながら、再考していきましょう。
1960年2月13日に、現在の独・ベルリンで行なわれたステージを収録したライヴ盤です。
オリジナルはLP盤で、A面5曲B面4曲の合計9曲を収録。同曲数同曲順でCD化されましたが、コンプリート盤として未発表曲を足した19曲収録のヴァージョンもあります。
メンバーは、ヴォーカルがエラ・フィッツジェラルド、ピアノがポール・スミス、ギターがジム・ホール、ベースがウィルフレッド・ミドルブルックス、ドラムスがガス・ジョンソンです。
エラ・フィッツジェラルドは1917年生まれ。
14歳で孤児となり荒れた生活を送るも、17歳のときニューヨークのハーレムにあったアポロ・シアターで行なわれるプロへの登竜門“アマチュア・ナイト”に出場し、晴れてプロ歌手としての活動をスタートさせることになりました。
1950年代後半、LP盤の出現でレコード制作の現場に作品性への意識が高まると、彼女は“ソングブック”と題して、コール・ポーターやアーヴィング・バーリン、デューク・エリントンといった、それまでのジャズを芸術の域へ高める功績を残してきた音楽家たちの楽曲をまとめて紹介するプロジェクトに取りかかります。
続々とリリースされた作品群は高く評価され、世にエラ・フィッツジェラルドの名を知らしめることになりました。
その一方で、エラ・フィッツジェラルドの本領はライヴでこそ発輝されると信じる人がいました。
それが、名物プロデューサーとして知られるノーマン・グランツ。
彼がエラに求めたのは、スタジオで約3分に収められる無難でバランスのいい予定調和的なエンタテインメントではなく、どうなるのかわからなくてハラハラドキドキさせるけれど、ずば抜けたクオリティで破綻させないアーティスティックなパフォーマンスでした。
それを具現してアルバムという作品へ仕立てるに至ったのが、このベルリン公演のステージだったのです。
特に、この日が初演だった『マック・ザ・ナイフ』は、歌詞もうろ覚えで、とても完璧に歌える状態ではなかったそうです。しかし、途中からその場で思いついた言葉に変えたりスキャットを挿入したりと、バッド・コンディションを逆手に取ったエラならではの自由で高度なパフォーマンスを繰り広げ、会場はやんやの大喝采。それはまさにノーマン・グランツの狙いどおりでした。
『マック・ザ・ナイフ』は以降のエラ・フィッツジェラルドのおハコとなり、この録音のシングル盤はアルバムとともにグラミー賞の最優秀女性ヴォーカル賞に輝き、本作を押しも押されもせぬ“名盤”にした、というわけです。
このベルリン公演は、当時の西ベルリンにあった公会堂で1万2000人の観衆を前に行なわれました。
第二次世界大戦で敗れたドイツは、英米仏ソ4か国による分割統治を経て、東西対立により1949年にドイツ連邦共和国(西ドイツ)とドイツ民主共和国(東ドイツ)の2つに分断されます。
対立は深まり、1961年にはとうとう物理的な“壁”(=ベルリンの壁)で両国境の往来を制限する事態に発展。
つまり本作は、“壁”が出現する直前の、ピリピリとした国際情勢下における地(西ベルリンは西ドイツの飛び地状態で、東ドイツ内にありました)で行なわれた、民主主義的自由と資本主義を象徴する“ジャズ”のデモンストレーションでもあったことがうかがえるのです。
デモンストレーションであると考える理由のひとつに、音源に残っているMCやエラ・フィッツジェラルドの歌う歌詞もすべて英語で、ドイツ公演であることの配慮が感じられないことが挙げられます。
唯一、ドイツの劇作家であるベルトルト・ブレヒトの戯曲「三文オペラ」に由来する『マック・ザ・ナイフ』という選択が配慮っぽさを感じさせますが、実は彼女が見聞きしていた曲は舞台をロンドンからニューヨークへ移したアメリカ向けリメイク版で使われていたもので、オリジナルをリスペクトするためとは言いがたいため、やっぱり“ドイツの人たちに喜んでもらおう”という意図があったとはとても思えません。
では、どんな観客が想定されていたのかというと、1955年に西ドイツが主権を回復した後も駐留を続けた英米仏の軍属たち(特に米兵)で、彼らに対する慰問の意味合いが強かったのではないか、とボクは推察しています。
つまり、エラ・フィッツジェラルドは、アメリカで流行していた曲(『マック・ザ・ナイフ』は1955年にルイ・アームストロングがリリースしていて、1959年のボビー・ダーリンによるカヴァー・ヴァージョンはグラミー賞の最優秀レコード賞を受賞する大ヒットを記録しています)を気まぐれで“歌ってみた”だけだったのだろう、と……。
でも、その気まぐれが、ジャズ・ヴォーカルのエッセンスを詰め込んだ『マック・ザ・ナイフ』というパフォーマンスを生み、その背景を探るべく第二次世界大戦後の欧州におけるピリピリとした空気感やそのなかでのジャズの役割にまで思いを馳せさせることになったのですから、やっぱり“名盤”というのは奥が深いなぁと思ってしまうわけなのです。
富澤えいち〔とみざわ・えいち〕
ジャズ評論家。1960年東京生まれ。学生時代に専門誌「ジャズライフ」などでライター活動を開始、ミュージシャンのインタビューやライヴ取材に明け暮れる生活を続ける。2004年に著書『ジャズを読む事典』(NHK出版生活人新書)を上梓。カルチャーセンターのジャズ講座やCSラジオのパーソナリティーを担当するほか、テレビやラジオへの出演など活字以外にも活動の場を広げる。専門誌以外にもファッション誌や一般情報誌のジャズ企画で構成や執筆を担当するなど、トレンドとしてのジャズの紹介や分析にも数多く関わる。『井上陽水FILE FROM 1969』(TOKYO FM出版)収録の2003年のインタビュー記事のように取材対象の間口も広い。2012年からYahoo!ニュース個人のオーサーとして記事を提供中。
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文/ 富澤えいち
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