今月の音遊人
今月の音遊人:由紀さおりさん「言葉の裏側にある思いを表現したい」
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早速、前回の原稿に反応があった。
ただし、「ハードル、あるよね~」とか「んなもん、気にしすぎてるだけなのでは?」といった共感や反発ではない。
「あの文章こそコジレていて、よけいにジャズのハードルを上げることになっているのではないのか」という指摘だった。
確かにコジレている。割り切れないものがジャズという音楽を語ろうとするときに常に立ちふさがる。それを伝えたかった。そのためには、コジレていない、すっきりとした文章で言い切ることが憚られたのである。
さて、言い訳はこのぐらいにして、もったいつけずにジャズのハードルが下がらない理由を解き明かしていきたい。
まず考えられるのが、義務教育の延長線上で音楽をとらえようとする傾向が日本では特に強いのではないかということ。その根底には、評価を既定のシステムに委ねなければならない教育現場のジレンマが存在すると言える。
要するに、教わる側の“理解度”を測定するために、カリキュラムという枠のなかで事象の固定化が行なわれる。これは、数学(ないし算数)のように答えが決まっている授業の場合には効果を発揮するが、個人の感受性に委ねられる分野では齟齬(そご)が生じやすい。
例えば、「ベートーヴェンは古典派の旧弊を打ち破り、ロマン派という感情の発露を西洋音楽の世界へもたらした先駆者である」というカリキュラムに沿って授業が行なわれたとする。
生徒(ないし児童)は、“ベートーヴェン”や“古典派”、あるいは“ロマン派の先駆”というキーワードを紐付けすることができれば評価される。
交響曲第9番の第4楽章がどうして、まるで生き急げというように迫り上がっていくのかを不思議に感じたとしても、それは胸にしまっておかなければならない。それが評価を上げる(良い点数をとる)テクニックだからだ。
こうしたインセンティヴは、音楽本来の評価とは離れたものになるが、音楽という教科を固定化するためには有効だ。
一方で、人気を尺度にした評価が優先される大衆音楽と言っていいジャズでは、こうした固定化のための作業がなじまない。
つまり、音楽という大きな括りのなかでジャズをクラシックと同じように学ぼうというアプローチこそが、ジャズのハードルを上げている“真犯人”である可能性が高いというわけだ。
考えてみれば、ジャズは“個”の音楽と言われているにもかかわらず、それを一般的に固定化、つまりオーソライズしようとするのは矛盾している。発するほうが“個”であるならば、受ける側も“個”であるべき方法論が必要となるはずなのだ。
これまでの音楽教育は、ティーチングやコーチングという言葉で表すことのできるアプローチの範疇にあった。ジャズにはそれが通じないのであれば、どのように変えなければならないのか?
次回は、コンサルティングとカウンセリングというアプローチを比較しながら、この“ジャズのハードル問題”を解いていきたい。
<続>
富澤えいち〔とみざわ・えいち〕
ジャズ評論家。1960年東京生まれ。学生時代に専門誌「ジャズライフ」などでライター活動を開始、ミュージシャンのインタビューやライヴ取材に明け暮れる生活を続ける。2004年に著書『ジャズを読む事典』(NHK出版生活人新書)を上梓。カルチャーセンターのジャズ講座やCSラジオのパーソナリティーを担当するほか、テレビやラジオへの出演など活字以外にも活動の場を広げる。専門誌以外にもファッション誌や一般情報誌のジャズ企画で構成や執筆を担当するなど、トレンドとしてのジャズの紹介や分析にも数多く関わる。『井上陽水FILE FROM 1969』(TOKYO FM出版)収録の2003年のインタビュー記事のように取材対象の間口も広い。2012年からYahoo!ニュース個人のオーサーとして記事を提供中。
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