今月の音遊人
今月の音遊人:城田優さん「音や音楽は生活の一部。悲しいときにはマイナーコードの音楽が、楽しいときにはハッピーなビートが頭のなかに流れる」
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前回、「ボレロ」について触れたのだけれど、果たして「ボレロ」ってクラシックなのかという問題を解決せずに書き進めてしまったことに気づいた。
「ボレロ」を作曲したのはモーリス・ラヴェル。フランス人の作曲家だ。この曲、1928年にバレエ曲として制作されている。資料によれば、依頼を受けたラヴェルは、アメリカ演奏旅行から帰国してこの曲を書き始めたという。
1928年のアメリカといえば、すでにスウィング・エイジの真っ只中。1924年に「ラプソディー・イン・ブルー」を発表していたジョージ・ガーシュウィン、1927年にニューヨークのコットンクラブへの出演契約を果たしていたデューク・エリントン、1928年にニューヨークへ拠点を移したベニー・グッドマンなどなど、レイス・ミュージックだったとはいえ、第一次世界大戦後の好景気に沸くアメリカの中心地で民衆に支持されているジャズという音楽を意識せずに過ごしたとは、やっぱり考えにくいんじゃなかろうか。
いや、ラヴェルに“ジャズを作曲した”という意識はなかったに違いない。しかし、ニアミスとひと言では片付けられないほどの距離での接近があったはずだ。
ということは、“ジャズを十分に意識したと思われるラヴェルの「ボレロ」をジャズ・ミュージシャンが取り上げることは、ジャズ側からクラシック側に越境したとは言えないのではないか”という問題があったことになる。
作曲者自身、この曲は世界のオーケストラには受け入れられないだろうと考えていたのだから、アンチ・クラシック→ジャズという証明になってもおかしくない。
ただ、実際には1920年代におけるポピュラー音楽の主流にまでなっていたスウィングのスタイルからはかけ離れていたことで、逆に“ジャズではない”とされ、またクラシックの演奏者に受け入れられていたことが、「ボレロ」とジャズを明確に分けてしまったというのが現実だったようだ。
しかし、前回も触れたように、塩谷哲のような表現者はやすやすと、クラシックに押し込められていた「ボレロ」を越境させてしまったことになる。さすがに“前世はパリジャン”と自称するピアニストだけのことはある。
さてもうひとつ、「ボレロ」で思い出したのが、松永貴志の演奏だ。
彼が2018年10月にリリースした、デビュー15周年を記念するアルバム『ザ・ワールド・オブ・ピアノ』に収録された「ボレロ」は、塩谷哲版「ボレロ」がフランス現代音楽的な視点を用いた音響効果で再構築を果たしたのに対し、ジャズ的なアプローチを駆使してバレエ曲であるオリジナルの脱構築化に成功している。
ジャズ的なアプローチとは、例えばブレイクビーツのようなクラブジャズのマテリアルをリズムに取り入れたことや、イーブンでアクセントを押さえたタッチのピアノ奏法のことを指すのだけれど、これはすなわち、それ以前の“ジャズ・アレンジ”がスウィング・スタイルのマテリアルを用いることで処理していたこととは一線を画しているというわけ。
さらにこのアルバムでは、RADWIMPSの「前前前世」を同列に置くといった、確信犯的な時代性のマリアージュを試みている点が興味深い。
この“時代性のマリアージュ”が、“ジャズはクラシックのなれの果てなのか問題”を解く鍵になるのではないかと思うので、興味深いほかの例を次回から取り上げていきたい。
富澤えいち〔とみざわ・えいち〕
ジャズ評論家。1960年東京生まれ。学生時代に専門誌「ジャズライフ」などでライター活動を開始、ミュージシャンのインタビューやライヴ取材に明け暮れる生活を続ける。2004年に著書『ジャズを読む事典』(NHK出版生活人新書)を上梓。カルチャーセンターのジャズ講座やCSラジオのパーソナリティーを担当するほか、テレビやラジオへの出演など活字以外にも活動の場を広げる。専門誌以外にもファッション誌や一般情報誌のジャズ企画で構成や執筆を担当するなど、トレンドとしてのジャズの紹介や分析にも数多く関わる。『井上陽水FILE FROM 1969』(TOKYO FM出版)収録の2003年のインタビュー記事のように取材対象の間口も広い。2012年からYahoo!ニュース個人のオーサーとして記事を提供中。
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