Web音遊人(みゅーじん)

ブラッド・メルドーの『アフター・バッハ』は“無の境地”に至るショートカットなのかもしれない

現在のジャズ・ピアノ・シーンで最重要人物の一人に数えられるブラッド・メルドー。1970年生まれの48歳。

彼が2018年5月にリリースしたのが、その名もズバリ『アフター・バッハ』だ。

本稿にズバリと当てはまるこのアルバム、内容をざっと見てみよう。

冒頭を飾るのは「ビフォー・バッハ:ベネディクション」というメルドーのオリジナル。

「これからヨハン・ゼバスティアン・バッハの“音楽観”をモチーフにした作品を作りますよ」という、彼ならではの“宣言”だ。ちなみに“ベネディクション”は、“食事の前のお祈り”という軽い意味と、“聖体賛美式=祀られている聖体を礼拝する儀式(カトリック教会)”という重い意味を掛け合わせているように思われる。この場合の“聖体”はもちろん、バッハだろう。

2曲目からは、バッハの「平均律クラヴィーア曲集 第1巻 ~前奏曲 第3番 嬰ハ長調 BWV848」「平均律クラヴィーア曲集 第2巻 ~前奏曲 第1番 ハ長調 BWV870」「平均律クラヴィーア曲集 第1巻 ~前奏曲 第10番 ホ短調 BWV855」「平均律クラヴィーア曲集 第1巻 ~前奏曲とフーガ 第12番 ヘ短調 BWV857」「平均律クラヴィーア曲集 第2巻 ~フーガ 第16番 ト短調 BWV885」を取り上げ、各曲のあとに「アフター・バッハ」とタイトルされたメルドーのオリジナルをそれぞれ加えた構成になっている。

「アフター・バッハ」の5曲には、「ロンド(回旋曲)」「パストラーレ(牧歌)」「フラックス(流転)」「ドリーム(夢)」「オスティナート(執拗反復)」という副題が付けられていて、モチーフとなったバッハの曲を弾いた彼が、どんなインスピレーションを得てオリジナルを生み出すに至ったのか、そのヒントを提示したようなかたちになっているのが興味深い。

もともとブラッド・メルドーというピアニストは、メジャー・シーンに登場した1990年当時から“対位法をジャズに持ち込んだ”と評されるような、それまでのジャズ・ピアノの系譜とは異なったタイプのプレイヤーだった。

ジャズのリスナーが(厳密な意味での対位法ではない)彼のプレイを“対位法”だと勘違いしたのは、その左手の動きが“ジャズ・ピアニストらしからぬもの”だったからなのだけれど、メロディの右手とコードの左手といったジャズのセオリーを無視したという意味では“対位法的な両手の使い方だった”と言っていいかもしれない。

つまり、ブラッド・メルドーは最初から“ジャズの皮を被ったクラシックのピアニスト”というイメージをもたれていたことになるわけだけれど、その皮を自ら脱いでしまったのが本作だということになる。

ところが、いざジャズの皮を脱いで真正面からバッハに向き合ってみると、その解釈はジャズ以外のなにものでもないということに気づかされる。

いや、これはもしかしたら“バッハそのものがジャズ”であるといえるほど、これまで先人たちが挑戦しつつも届かなかった“アレンジの向こう側”へ、突き抜けてしまった作品なのかもしれない。

実は最後に1曲、「プレイヤー・フォー・ヒーリング(癒やしのための祈り)」というオリジナルが収録されている。

この1曲のために前の11曲があった──と言ってしまいたくなるほど、すべてが許されるような“無の境地”を感じさせるサウンドなのだ。

それは、バッハが“祈り”を超えて到達しようとした場所なのかもしれないし、“無理してバッハをなぞらなくても行けるんだよ”と現代のピアニストが示し得た“音楽の理想”なのかもしれない。

富澤えいち〔とみざわ・えいち〕
ジャズ評論家。1960年東京生まれ。学生時代に専門誌「ジャズライフ」などでライター活動を開始、ミュージシャンのインタビューやライヴ取材に明け暮れる生活を続ける。2004年に著書『ジャズを読む事典』(NHK出版生活人新書)を上梓。カルチャーセンターのジャズ講座やCSラジオのパーソナリティーを担当するほか、テレビやラジオへの出演など活字以外にも活動の場を広げる。専門誌以外にもファッション誌や一般情報誌のジャズ企画で構成や執筆を担当するなど、トレンドとしてのジャズの紹介や分析にも数多く関わる。『井上陽水FILE FROM 1969』(TOKYO FM出版)収録の2003年のインタビュー記事のように取材対象の間口も広い。2012年からYahoo!ニュース個人のオーサーとして記事を提供中。
富澤えいちのジャズブログ富澤えいちのジャズ・ブログ道場Facebook

 

特集

今月の音遊人:葉加瀬太郎さん

今月の音遊人

今月の音遊人:葉加瀬太郎さん「音楽は自分にとって《究極のひまつぶし》。それは、この世の中でいちばん面白いことだから」

10749views

ジャズとロックの関係性

音楽ライターの眼

ジャズ・ギターとビートルズの出逢い~なぜ『ア・デイ・イン・ザ・ライフ』まで出逢えなかったのか?

2805views

v

楽器探訪 Anothertake

弾く人にとっての理想の音を徹底的に追究したサイレントバイオリン™

6287views

初心者におすすめのエレキギターとレッスンのコツ!

楽器のあれこれQ&A

初心者におすすめのエレキギターと知っておきたい練習のコツ

20868views

ホルンの精鋭、福川伸陽が アコースティックギターの 体験レッスンに挑戦! Web音遊人

おとなの楽器練習記

【動画公開中】ホルンの精鋭、福川伸陽がアコースティックギターの体験レッスンに挑戦!

10345views

オトノ仕事人

最適な音響システムを提案し、理想的な音空間を創る/音響施工プロジェクト・リーダーの仕事

1684views

ホール自慢を聞きましょう

ウィーンの品格と本格派の音楽を堪能できる大阪の極上空間/いずみホール

6257views

ズーラシアン・フィル・ハーモニー

こどもと楽しむMusicナビ

スーパープレイヤーの動物たちが繰り広げるステージに親子で夢中!/ズーラシアンブラス

13092views

ギター文化館

楽器博物館探訪

19世紀スペインの至宝級ギターを所蔵する「ギター文化館」

14245views

上海ブラスバンド日本支部

われら音遊人

われら音遊人:上海で生まれた縁が続く大家族のようなブラスバンド

1683views

パイドパイパー・ダイアリー Vol.8 - Web音遊人

パイドパイパー・ダイアリー

初心者も経験者も関係ない、みんなで音を出しているだけで楽しいんです!

4983views

太平洋に浮かぶ楽園で、小笠原古謡に恋をする Web音遊人

音楽めぐり紀行

太平洋に浮かぶ楽園で、小笠原古謡に恋をする

9435views

ホルンの精鋭、福川伸陽が アコースティックギターの 体験レッスンに挑戦! Web音遊人

おとなの楽器練習記

【動画公開中】ホルンの精鋭、福川伸陽がアコースティックギターの体験レッスンに挑戦!

10345views

浜松市楽器博物館

楽器博物館探訪

見るだけでなく、楽器の音を聴くこともできる!

13284views

ジャック・ブルース

音楽ライターの眼

ジャック・ブルースのラジオ&TV出演時の6枚組アンソロジー・ボックスが発売

898views

オトノ仕事人

ピアノを通じて人と人とがつながる場所をコーディネートする/LovePianoプロジェクト運営の仕事

17142views

われら音遊人

われら音遊人:みんなの灯をひとつに集め、大きく照らす

5233views

楽器探訪 Anothertake

ナチュラルな響きと多彩な機能で電子ドラムの可能性を広げる、新たなフラッグシップモデルDTX10/DTX8シリーズ

4168views

アクトシティ浜松 中ホール

ホール自慢を聞きましょう

生活の中に音楽がある町、浜松市民の音楽拠点となる音楽ホール/アクトシティ浜松 中ホール

13703views

山口正介さん Web音遊人

パイドパイパー・ダイアリー

サクソフォン教室の新しいクラスメイト、勝手に募集中!

4309views

楽器のあれこれQ&A

ウクレレを始めてみたい!初心者が知りたいあれこれ5つ

4083views

こどもと楽しむMusicナビ

1DAYフェスであなたもオルガン博士に/サントリーホールでオルガンZANMAI!

2771views

ポロネーズに始まりマズルカに終わる、ショパンの誇り高き精神をめぐるポーランドの旅 - Web音遊人

音楽めぐり紀行

ポロネーズに始まりマズルカに終わる、ショパンの誇り高き精神をめぐるポーランドの旅

28619views