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連載22[ジャズ事始め]上海というアジアの拠点を失った“日本のジャズ”が次に求めたスタイル
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2020.10.23
日本において、穐吉敏子や渡辺貞夫がアメリカをめざした1950年代と、本稿でも触れた「上海帰りは箔が付く」と言われた1920年代では、なにがどう違っていたのだろうか。
前者と後者では求めるものが違っていて、それゆえに後者は商業音楽の世界に埋没したため名を残すことがなく、前者は“日本のジャズ”を築いたオリジネイターとして名を残すことになった──というところから論考を進めてみたい。
大前提として挙げておかなければならないのは、その地に赴いて得ようとした目標物、すなわち“ジャズの種類”に違いがあったことだろう。
1920年代に最先端と言われたジャズは、ニューオーリンズ・スタイルから発展したスウィングと呼ばれるものだった。ニューオーリンズ・ジャズやスウィングこそが“ジャズ”であり、そのニュアンスを我がものとするための海外渡航だった。
そして、そのニュアンスを持ち帰ることができれば、ショー・ビジネスの世界で高く評価され、それに見合った対価を得る機会に恵まれたというわけだ。
一方の1950年代は、アメリカにおいてビバップを発展させた“モダン・ジャズ”が頭角を現わし、次代の主流としてスウィング・スタイルを凌駕する準備を整えているところだった。
1950年代でも、「箔を付ける」ためならアメリカへ赴いてスウィングを体得すればよかったわけだが、穐吉敏子や渡辺貞夫が得ようと思っていた“ジャズ”は、それではなかった。
最先端という括りでいえば、1920年代にスウィングを求めて上海へ赴いたことと、1950年代に“モダン・ジャズ”を求めてアメリカへ赴いたことは、同じように見えるかもしれない。
しかしこの両者には、時代の隔たりという理由だけではない、根本的な違いが存在していた。
「秋吉さんはジャズしかやらないのでよくクラブを首になった。仕事があまりなく、あっちこっちで演奏したが、結局仕事がなくなり、解散したり、また一緒に演奏したりのくり返しだった」「秋吉さんが渡米して、自分でバンドをもった時は、みんなに給料を払うと、月に千五百円くらいしか残らなかった。バンド・リーダーのつらいところだが、それでもポピュラーはやらないで、ジャズだけをやっていた。それでよくクラブを首になった。流行歌は絶対やらないし、お客がリクエストしても演奏しないから、首になるのが当然だった」(引用:渡辺貞夫『ぼく自身のためのジャズ』徳間文庫)
1950年代の大卒初任給はだいたい1万円だったというから、華やかなイメージのバンドマン稼業とはおよそかけ離れた経済状態だったことがうかがえる。
ここで渡辺貞夫が言っている“ジャズ”とは、彼が最初に耳にしたベニー・グッドマンの演奏スタイル(=スウィング)ではなく、東京へ出るモチヴェーションを与えてくれたチャーリー・パーカーの演奏スタイル(=ビバップ)のことだ。
そしてそのビバップは、当時の日本のエンタテインメント業界ではまだ受け容れられていなかったことが、引用部分からも伝わると思う。
つまり、1920年代に上海へと向かった日本のジャズ・ミュージシャンたちが追い風に乗っていたのに対し、1950年代の穐吉敏子や渡辺貞夫は逆風のなかをあえて飛び立った──と言ってもいいだろう。
しかし、1960年代になると、日本でもジャズの風向きが変わってくる。次回は、渡辺貞夫が米・ボストンのバークリー音楽大学へ留学する1962年へと駒を進めてみたい。
富澤えいち〔とみざわ・えいち〕
ジャズ評論家。1960年東京生まれ。学生時代に専門誌「ジャズライフ」などでライター活動を開始、ミュージシャンのインタビューやライヴ取材に明け暮れる生活を続ける。2004年に著書『ジャズを読む事典』(NHK出版生活人新書)を上梓。カルチャーセンターのジャズ講座やCSラジオのパーソナリティーを担当するほか、テレビやラジオへの出演など活字以外にも活動の場を広げる。専門誌以外にもファッション誌や一般情報誌のジャズ企画で構成や執筆を担当するなど、トレンドとしてのジャズの紹介や分析にも数多く関わる。『井上陽水FILE FROM 1969』(TOKYO FM出版)収録の2003年のインタビュー記事のように取材対象の間口も広い。2012年からYahoo!ニュース個人のオーサーとして記事を提供中。
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