Web音遊人(みゅーじん)

デビュー35周年を迎える長谷川陽子の記念リサイタル

日本を代表するチェリストのひとり、長谷川陽子が2022年にデビュー35周年を迎える。これを記念して、2022年5月19日に東京文化会館小ホールでベートーヴェンのチェロ・ソナタ全曲演奏会を開くことになった。

「20代でベートーヴェンのチェロ・ソナタ全曲を演奏したことはあるのですが、本当に理解して弾いていたのかどうかわかりません。特に第5番は難しかったですね。以来、全曲演奏をすることはなく、録音のお話もいただいたのですが、まだその時期ではないと判断し、実現しませんでした」

その後、しばらくベートーヴェンとは距離を置く形となっていたが、コロナ禍で再びベートーヴェンの作品と向き合うことになった。

「コロナ禍ですべてが変化し、演奏する機会もなく、しばらく楽器のケースを開けることすらできない状況に陥りました。そんなとき、ベートーヴェンの楽譜と対峙する機会があり、ベートーヴェンが音楽に引き戻してくれたのです。ベートーヴェンは苦しみ、悩み、もがき、革命を起こした人。新しい世界を創造し、そのエネルギーの大きさは計り知れません。私には音楽しかないと思い知らせてくれた。何をやっているんだと怒られた感じです。そこからベートーヴェンのチェロ・ソナタに向き合い、これまでの経験やいろんな人との共演を重ねてきたことなども踏まえ、自分なりのアイデアでベートーヴェンの人間としてのエネルギーを表現したいと思うようになりました。今回の全曲演奏会では、その思いを存分に発揮したいと思っています」

長谷川陽子は9歳から井上頼豊に師事し、桐朋学園大学に進学後、1989年よりフィンランドのシベリウス・アカデミーに留学してアルト・ノラスに師事することになる。

「井上先生がノラスに演奏を聴いてもらえるように心配りをしてくださり、そのおかげでフィンランドで研鑽を積むことができました。ノラスは常に弾きながら教えるスタイル。それを見ながら、聴きながら、自分で奏法を探していくという教授法です」

もっとも印象的だったのは、ベートーヴェンのチェロ・ソナタ第3番の第1楽章の最初の8小節の教え。半年間、この8小節だけを弾くというレッスンだった。

「8小節だけを半年間弾くだけ。音の出し方、ビブラート、フレージング、音を出す前の呼吸、ポジション移動などを学ぶ。もう一種のアレルギーのようになって、ベートーヴェンのチェロ・ソナタは弾きたくないとまで思ってしまいました。でも、いま考えるとノラスの教えから得ることは大きく、その後に学んださまざまなことも含めて私の大きな財産となっています」

フィンランドの冬は長く寒い。家は陽光を少しでも取り入れるよう工夫され、窓が大きくとられている。長谷川陽子が部屋で練習しているとき、窓の向こうに森が見え、その先に少しだけ海がのぞく。そこに夕日がゆっくり沈んでいく様子を感動しながら見続けた。

「フィンランド人は思慮深い人が多く、雪のなかで静謐な時間を過ごす。その雰囲気が大好きでした。シベリウスが“静寂が語る”ということばを残していますが、まさにその感覚がピッタリです。いまはずいぶんおしゃれな国になり、教育も福祉も経済も世界的に注目を集めるようになりましたが、私がいたころはじゃがいもとニシンくらいしかないような、とても素朴な国でした」

ここで、ベートーヴェンのチェロ・ソナタをひとことずつコメントしてもらうと……。

「第1番と第2番はほぼ同時期に書かれ、似たキャラクターを備えています。ピアノが重視され、チェロはまだ通奏低音の役割が大きいですね。おもちゃ箱をひっくり返したようないろんなテーマが登場し、あふれんばかりのエネルギーが感じられます。でも、私はピアノ・ソナタのチェロ付きという形にはしたくありません。第3番はのびやかで、歌心に満ち溢れ、それがチェロの響きに合っています。チェロの可能性を飛躍的に伸ばした作品です。第4番は幻想的で、愛情の深さを感じます。ベートーヴェンが恋をしていたのでしょうか。人を愛する気持ちが感じられます。第5番は哲学的で、物語性に富んでいます。ベートーヴェンの生きざまが映し出され、力強さが印象的で、作品の構築性も巨大です」

その偉大な5曲を実力派ピアニスト、松本和将とともに演奏する。5月にはふたりによるベートーヴェンのチェロ・ソナタ(全曲)録音もリリースされる予定(日本アコースティックレコーズ)。1700年製マッテオ・ゴフリラーと1850年製ヴィヨームの楽器のいずれかで演奏するか、両方を弾き分けるか、いまは思案中そうだ。「私にとっての挑戦です」という彼女の新たな世界への幕開けとなりそうだ。

長谷川陽子オフィシャルサイト

伊熊 よし子〔いくま・よしこ〕
音楽ジャーナリスト、音楽評論家。東京音楽大学卒業。レコード会社、ピアノ専門誌「ショパン」編集長を経て、フリーに。クラシック音楽をより幅広い人々に聴いてほしいとの考えから、音楽専門誌だけでなく、新聞、一般誌、情報誌、WEBなどにも記事を執筆。著書に「クラシック貴人変人」(エー・ジー出版)、「ヴェンゲーロフの奇跡 百年にひとりのヴァイオリニスト」(共同通信社)、「ショパンに愛されたピアニスト ダン・タイ・ソン物語」(ヤマハミュージックメディア)、「魂のチェリスト ミッシャ・マイスキー《わが真実》」(小学館)、「イラストオペラブック トゥーランドット」(ショパン)、「北欧の音の詩人 グリーグを愛す」(ショパン)など。2010年のショパン生誕200年を記念し、2月に「図説 ショパン」(河出書房新社)を出版。近著「伊熊よし子のおいしい音楽案内 パリに魅せられ、グラナダに酔う」(PHP新書 電子書籍有り)、「リトル・ピアニスト 牛田智大」(扶桑社)、「クラシックはおいしい アーティスト・レシピ」(芸術新聞社)、「たどりつく力 フジコ・ヘミング」(幻冬舎)。共著多数。
伊熊よし子の ークラシックはおいしいー

 

facebook

twitter

特集

今月の音遊人

今月の音遊人:渡辺真知子さん「幼稚園のころ、歌詞の意味もわからず涙を流しながら歌っていたのを覚えています」

7514views

【クラシック名曲 ポップにシン・発見】(Phase15)ブルックナー生誕200年、「交響曲第3番」第1稿の怪物性、ワーグナーファンの受難

音楽ライターの眼

【クラシック名曲 ポップにシン・発見】(Phase15)ブルックナー生誕200年、「交響曲第3番」第1稿の怪物性、ワーグナーファンの受難

1285views

ギター文化館

楽器探訪 Anothertake

歴史的ギターの音を生で聴けるコンサートも開催!

7421views

ヴェノーヴァ

楽器のあれこれQ&A

気軽に始められる新しい管楽器 Venova™(ヴェノーヴァ)の魅力

2517views

ぱんだウインドオーケストラの精鋭たちがバイオリンの体験レッスンに挑戦!

おとなの楽器練習記

【動画公開中】ぱんだウインドオーケストラの精鋭たちがバイオリンの体験レッスンに挑戦!

13622views

トーマス・ルービッツ

オトノ仕事人

アーティストに寄り添い、ともに楽器の開発やカスタマイズを行うスペシャリスト/金管楽器マイスターの仕事

1992views

人が集まり発信する交流の場として、地域活性化の原動力に/いわき芸術文化交流館アリオス

ホール自慢を聞きましょう

おでかけ?たんけん?ホール独自のプランで人々の厚い信頼を獲得/いわき芸術文化交流館アリオス

8592views

ズーラシアン・フィル・ハーモニー

こどもと楽しむMusicナビ

スーパープレイヤーの動物たちが繰り広げるステージに親子で夢中!/ズーラシアンブラス

14374views

上野学園大学 楽器展示室」- Web音遊人

楽器博物館探訪

伝統を引き継ぐだけでなく、今も進化し続ける古楽器の世界

13188views

われら音遊人

われら音遊人:ただ今、バンド活動リハビリ中!

8132views

『チュニジアの夜』は相当に難しいが、次回のレッスンが待ち遠しい 山口正介

パイドパイパー・ダイアリー

『チュニジアの夜』は相当に難しいが、次回のレッスンが待ち遠しい

5652views

ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブにサルサ!キューバ音楽に会いに行く旅 - Web音遊人

音楽めぐり紀行

ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブにサルサ!キューバ音楽に会いに行く旅

26118views

大人の楽器練習記:バイオリニスト岡部磨知がエレキギターを体験レッスン

おとなの楽器練習記

おとなの楽器練習記:バイオリニスト岡部磨知がエレキギターを体験レッスン

19795views

小泉文夫記念資料室

楽器博物館探訪

民族音楽学者・小泉文夫の息づかいを感じるコレクション

10359views

音楽ライターの眼

ロビン・トロワーとマキシ・プリーストが合体。スタイルを超えたアルバム『United State Of Mind』を発表

2585views

オトノ仕事人

音楽をやりたい子どもたちの力になりたい/地域音楽コーディネーターの仕事

9419views

われら音遊人

われら音遊人

われら音遊人:音楽は和!ひとつになったときの達成感がいい

5993views

82Z

楽器探訪 Anothertake

アンバー仕上げが生む新感覚のヴィンテージ/カスタムサクソフォン「82Z」

3937views

音の粒までクリアに聴こえる音響空間で、新時代へ発信する刺激的なコンテンツを/東京芸術劇場 コンサートホール

ホール自慢を聞きましょう

音の粒までクリアに聴こえる音響空間で、刺激的なコンテンツを発信/東京芸術劇場 コンサートホール

12691views

山口正介 - Web音遊人

パイドパイパー・ダイアリー

この感覚を体験すると「音楽がやみつきになる」

8626views

購入前に知っておきたい!電子ピアノを選ぶときのポイントとおすすめ

楽器のあれこれQ&A

購入前に知っておきたい!電子ピアノを選ぶときのポイントとおすすめ機種

27423views

東京文化会館

こどもと楽しむMusicナビ

はじめの一歩。大人気の体験型プログラムで子どもと音楽を楽しもう/東京文化会館『ミュージック・ワークショップ』

7704views

ポロネーズに始まりマズルカに終わる、ショパンの誇り高き精神をめぐるポーランドの旅 - Web音遊人

音楽めぐり紀行

ポロネーズに始まりマズルカに終わる、ショパンの誇り高き精神をめぐるポーランドの旅

30893views