Web音遊人(みゅーじん)

【クラシック名曲 ポップにシン・発見】(Phase21)モーツァルト「ピアノ協奏曲第20番ニ短調」とペット・ショップ・ボーイズの16分音符はイントロスペクティヴ

【クラシック名曲 ポップにシン・発見】(Phase21)モーツァルト「ピアノ協奏曲第20番ニ短調」とペット・ショップ・ボーイズの16分音符はイントロスペクティヴ

モーツァルトのピアノ協奏曲は第27番まであるが、短調の作品は2つしかない。特に人気なのが「第20番ニ短調K.466」。文芸評論家の小林秀雄が「モオツァルト」の中で「かなしさは疾走する」と書いたのは別の短調の曲だが、その言葉の典拠となったアンリ・ゲオンの著作では、長調の曲を指している。とはいえニ短調のピアノ協奏曲でもかなしさは疾走し、内省的な16分音符がアレグロの美しさを際立たせる。哀愁の16ビートで疾走するペット・ショップ・ボーイズのアルバム「イントロスペクティヴ(内省的)」のように。

小林秀雄の「かなしさは疾走する」

モーツァルトの作品はほとんどが明るい長調で書かれている。コンサート用の交響曲や協奏曲ではとりわけ長調の作品の比重が高い。それだけに「交響曲第40番ト短調K.550」は「かなしみのシンフォニー」などと呼ばれて重宝がられる。ピアノ曲や室内楽では短調の曲がまだ比較的あるほうだ。

日本では短調を好む傾向が強い。小林秀雄もモーツァルトの短調の作品を愛した。著作「モオツァルト」にまず登場するのは「交響曲第40番ト短調」。大阪の道頓堀を放浪していた時代の冬の夜、第4楽章アレグロ・アッサイ(十分に速く)のテーマが頭の中で突然鳴ったとして、譜例を入れて紹介している。さらには「弦楽五重奏曲第4番ト短調K.516」を第1楽章第1主題の譜例付きで紹介しつつ、有名なキーワード「tristesse(かなしさ)」を登場させる。

リリー・クラウスのピアノ、スティーヴン・サイモン指揮ウィーン音楽祭管弦楽団による「モーツァルト:ピアノ協奏曲全集」(CD12枚組、1965~66年録音、ソニー)

リリー・クラウスのピアノ、スティーヴン・サイモン指揮ウィーン音楽祭管弦楽団による「モーツァルト:ピアノ協奏曲全集」(CD12枚組、1965~66年録音、ソニー)

小林は「tristesse(かなしさ)」をスタンダールの言葉として挙げたが、さらにフランスの劇作家ゲオンの1932年の著作「モーツァルトとの散歩(Promenades Avec Mozart)」(音楽評論家の高橋英郎訳で1988年白水社刊)から「tristesse allante」というより重要なキーワードを引き出している。「allante」は動詞「aller(行く)」の現在分詞でもあるが、「元気旺盛な、はつらつとした」を意味する形容詞だ。よって「tristesse allante」は直訳すれば「はつらつとしたかなしみ」。小林はこれを訳さないまま、「モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない」(小林秀雄「モオツァルト・無常という事」新潮文庫、45㌻)と書き、「万葉集」の「かなし」の表現に結び付けている。

ゲオンの指摘は「爽やかな悲しさ」

ところでゲオンの「モーツァルトとの散歩」を読むと、「tristesse allante」は、「弦楽五重奏曲第4番ト短調」を引き合いに出しながらも、実は「フルート四重奏曲ニ長調K.285」第1楽章アレグロについて述べている言葉だと分かる。高橋英郎訳では「足どりの軽い悲しさ」。しかもゲオンは「爽やかな悲しさ(allègre tristesse)」と言い換えてもいる(同訳書114~115㌻)。

文芸評論家の高橋英夫は著書「新編 疾走するモーツァルト」(講談社文芸文庫、2006年、初出は「新潮」1986年6月号)で、小林のゲオンの著作からの引用について論じた。そして「かなしさは疾走する」を小林的「誤訳」もしくは「一種の創造的誤解」と指摘した。しかし小林は意訳をしてでも、モーツァルトの短調のアレグロを創造的に解釈し、日本古来の「かなし」に結び付けたかったのではないか。「モオツァルト」は終戦から間もない1946年の著作である。

ルドルフ・ゼルキンのピアノ、ジョージ・セル指揮コロンビア交響楽団ほかによる「モーツァルト:ピアノ協奏曲集」(CD6枚組、1951~77年録音、ソニー)

ルドルフ・ゼルキンのピアノ、ジョージ・セル指揮コロンビア交響楽団ほかによる「モーツァルト:ピアノ協奏曲集」(CD6枚組、1951~77年録音、ソニー)

モーツァルトの本質は、明るい長調にさりげなく差し込む「爽やかな悲しさ」にある。それはアンビバレントな繊細さ、ゲオンが指摘する「晴れやかな陰翳いんえい」(高橋英郎訳)である。ならば冒頭から暗い情熱がほとばしる「ピアノ協奏曲第20番ニ短調」のような短調の作品は異例だ。それでも1785年のウィーン初演では、珍しい「ニ短調」への挑戦が、貴族や音楽家を中心とした当時の教養の高い聴衆にウケたようだ。父レオポルトやハイドンが初演の好評ぶりを伝えている。

速攻で仕上げたロマン派協奏曲

では「第20番ニ短調」の価値と人気の理由は何か。それは次代のロマン派を予告する前衛音楽だったことだ。ベートーヴェンをも飛び越えて、ロマン派音楽を先取りした。ショパン、シューマン、ブラームス、チャイコフスキー、ラフマニノフら19~20世紀初めのロマン派のピアノ協奏曲は今も非常に人気がある。「第20番ニ短調」はモーツァルト好きもロマン派好きも惹きつける魅力を持つ。

ダニエル・バレンボイムのピアノと指揮、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団による「モーツァルト:ピアノ協奏曲全集」(CD9枚組、1986~98年録音、ワーナー)

ダニエル・バレンボイムのピアノと指揮、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団による「モーツァルト:ピアノ協奏曲全集」(CD9枚組、1986~98年録音、ワーナー)

「第20番ニ短調」はベートーヴェンが愛好したことでも知られ、ロマンチックで抒情的、内省的で劇的である。快速で進む第1楽章アレグロはとりわけそうだ。分かりやすい哀愁が快適なスピード感で鳴るのだから、この曲についても「かなしみは疾走する」と呼びたくなる。魅力の源泉は、ピアノや弦楽器が連続的に鳴らす8分音符と4分音符によるシンコペーション、そこに絡む16分音符の速いフレーズにある。これらは旋律というよりも分散和音、コード進行、あるいは一種の16ビートのリズムといえる。


Mozart: Piano Concerto No. 20 in D Minor, K. 466 – 1. Allegro

ではモーツァルトは「第20番ニ短調」を通じて内面的な苦悩や悲しみを告白したか。この曲は予約演奏会に間に合わせるため、いつも以上に速攻で仕上げられたといわれる。そこに個人の内面を表出する深刻さはあっただろうか。第3楽章では明るいニ長調でシリアスな芝居を幕引きしている。むしろクールな職人気質で「ニ短調を使えばこれだけ内省的で劇的な音楽表現ができますよ」と示したのではなかろうか。18世紀後半の最新鋭の鍵盤楽器ピアノを駆使し、新しい試みで人々を驚かせ、感動させたアーティストの姿がそこにある。

「モンマルトルの森」の内省的な16ビート

20世紀後半、最先端の鍵盤楽器はシンセサイザーだった。モーツァルトがピアノで真珠を転がすような16分音符の速いフレーズを鮮やかに鳴らしたように、シンセサイザーによるダンス・ポップは技巧を凝らした16ビートを響かせる。英国のデュオ、ペット・ショップ・ボーイズはシンセ・ポップの代表格。1988年の3枚目のアルバム「イントロスペクティヴ」は最高傑作だ。その名の通り、内省的(イントロスペクティヴ)で6~9分と長めのディスコ・リミックス・ヴァージョンの6曲が続く。


I’m Not Scared (2018 Remaster)

シンセサイザーによる機械的な響きやリズムにもかかわらず、いずれの曲も哀愁を帯び、エモーショナルでドラマチックだ。そこには電子楽器を駆使して内省的な音楽ドラマを組み立てるクールな職人技がある。哀愁の16ビートの最たる曲は4曲目「I’m Not Scared(モンマルトルの森)」。精密で強力な16ビートに乗って、ハ短調のかなしみの旋律が駆け抜けていく。モーツァルトの短調の作品をリミックスすれば、哀愁のパリのシンセ・ポップになるかのようだ。

「ピアノ協奏曲第20番ニ短調」でも、パリのラムルー管弦楽団をイーゴリ・マルケヴィッチが指揮し、クララ・ハスキルがピアノを弾いた録音が名盤とされている。母を亡くした地パリはモーツァルトの短調が似合う。人は常に爽やかな気分でいられるわけではない。人それぞれの意訳だとしても、モーツァルトの「かなしさは疾走する」があっていい。

「クラシック名曲 ポップにシン・発見」全編 >

池上輝彦〔いけがみ・てるひこ〕
音楽ジャーナリスト。日本経済新聞社チーフメディアプロデューサー。早稲田大学卒。証券部・産業部記者を経て欧州総局フランクフルト支局長、文化部編集委員、映像報道部シニア・エディターを歴任。音楽レビュー、映像付き音楽連載記事「ビジュアル音楽堂」などを執筆。クラシック音楽専門誌での批評、CDライナーノーツ、公演プログラムノートの執筆も手掛ける。
日本経済新聞社記者紹介

特集

岩崎宏美さん

今月の音遊人

今月の音遊人:岩崎宏美さん「中学生のころ、マイケル・ジャクソンと結婚したいと思っていたんですよ」

10799views

塩谷哲

音楽ライターの眼

内なるポリフォニーが導くジャズピアノの展開力/塩谷哲 PIANO CONCERT 2023

1909views

STAGEA(ステージア)ELB-02 - Web音遊人

楽器探訪 Anothertake

エレクトーンで初めてオーディオファイル録音機能を装備

12922views

楽器のあれこれQ&A

ウクレレを始めてみたい!初心者が知りたいあれこれ5つ

4299views

バイオリニスト石田泰尚が アルトサクソフォンに挑戦!

おとなの楽器練習記

【動画公開中】バイオリニスト石田泰尚がアルトサクソフォンに挑戦!

12077views

オトノ仕事人

最適な音響システムを提案し、理想的な音空間を創る/音響施工プロジェクト・リーダーの仕事

1791views

サラマンカホール(Web音遊人)

ホール自慢を聞きましょう

まるでヨーロッパの教会にいるような雰囲気に包まれるクラシック音楽専用ホール/サラマンカホール

20285views

こどもと楽しむMusicナビ

親子で参加!“アートで話そう”をテーマにしたオーケストラコンサート&ワークショップ/第16回 子どもたちと芸術家の出あう街

5209views

ギター文化館

楽器博物館探訪

19世紀スペインの至宝級ギターを所蔵する「ギター文化館」

14453views

われら音遊人 リコーダー・アンサンブル

われら音遊人

われら音遊人:お茶を楽しむ主婦仲間が 音楽を愛するリコーダー仲間に

7630views

パイドパイパー・ダイアリー Vol.8 - Web音遊人

パイドパイパー・ダイアリー

初心者も経験者も関係ない、みんなで音を出しているだけで楽しいんです!

5069views

ポロネーズに始まりマズルカに終わる、ショパンの誇り高き精神をめぐるポーランドの旅 - Web音遊人

音楽めぐり紀行

ポロネーズに始まりマズルカに終わる、ショパンの誇り高き精神をめぐるポーランドの旅

29104views

【動画公開中】沖縄民謡アーティスト上間綾乃がバイオリンに挑戦!

おとなの楽器練習記

【動画公開中】沖縄民謡アーティスト上間綾乃がバイオリンに挑戦!

8907views

ギター文化館

楽器博物館探訪

19世紀スペインの至宝級ギターを所蔵する「ギター文化館」

14453views

【クラシック名曲 ポップにシン・発見】(Phase10)ミヨーとジョビンのサウダージ、見出されたブラジル、ボサノバの発明

音楽ライターの眼

【クラシック名曲 ポップにシン・発見】(Phase10)ミヨーとジョビンのサウダージ、見出されたブラジル、ボサノバの発明

1269views

コレペティトゥーアのお仕事

オトノ仕事人

高い演奏技術と幅広い知識で歌手の表現力を引き出す/コレペティトゥーアの仕事(前編)

18985views

われら音遊人:年齢も職業も超えた仲間が集う 結成30年のビッグバンド

われら音遊人

われら音遊人:年齢も職業も超えた仲間が集う、結成30年のビッグバンド

9133views

Disklavier™ ENSPIRE(ディスクラビア エンスパイア)- Web音遊人

楽器探訪 Anothertake

自宅で一流アーティストのライブが楽しめる自動演奏ピアノ「ディスクラビア エンスパイア」

56225views

武満徹の思い「未来への窓」をコンセプトに個性的な公演を/東京オペラシティ コンサートホール:タケミツメモリアル

ホール自慢を聞きましょう

武満徹の思い「未来への窓」をコンセプトに個性的な公演を/東京オペラシティ コンサートホール:タケミツ メモリアル

13704views

山口正介さん

パイドパイパー・ダイアリー

「自転車を漕ぐように」。これが長時間の演奏に耐える秘訣らしい

5892views

ヴェノーヴァ

楽器のあれこれQ&A

気軽に始められる新しい管楽器 Venova™(ヴェノーヴァ)の魅力

1633views

こどもと楽しむMusicナビ

サービス精神いっぱいの手作りフェスティバル/日本フィル 春休みオーケストラ探検「みる・きく・さわる オーケストラ!」

8951views

太平洋に浮かぶ楽園で、小笠原古謡に恋をする Web音遊人

音楽めぐり紀行

太平洋に浮かぶ楽園で、小笠原古謡に恋をする

9646views