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【クラシック名曲 ポップにシン・発見】(Phase22)ラフマニノフ「ピアノ協奏曲第2番ハ短調」、現代音楽がロマン派になる「砂の器」の宿命
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2024.4.18
tagged: 松本清張, ラフマニノフ, 音楽ライターの眼, クラシック名曲 ポップにシン・発見
1901年、20世紀の幕開けを告げる名曲が初演された。セルゲイ・ラフマニノフ(1873~1943年)の「ピアノ協奏曲第2番ハ短調Op.18」。甘美な抒情を湛える後期ロマン派のピアノ協奏曲を現代音楽の代表と捉えるのは見当違いと言われそうだが、映画音楽やポップスが隆盛した20世紀は新ロマン主義音楽の時代だったのではないか。前衛音楽のミュージック・コンクレートに切り込んだ松本清張の長編推理小説「砂の器」も、映画になると、ラフマニノフ風のピアノ協奏曲が流れるロマン派大作としてヒットする宿命にあった。
ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」第1楽章はシンプルで分かりやすく劇的な始まりだ。冒頭でピアノがサブドミナント(下属調)のヘ短調の和音を鐘の音のように鳴らし、8小節目で初めてドミナント(属調)のGの音が現れ、9小節目から主調のハ短調の分散和音(アルペジオ)へとなだれ込む。Ⅳ→Ⅴ→Ⅰの基本的な和声進行。壮大だが、奇をてらってはいない。正統派。ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」が高い人気を誇るのは、親しみやすい和声進行と美しい旋律、哀愁のロマンチシズムによる。
しかし9小節目から何かがおかしい。楽譜に誤りがある。2分の2拍子なのにピアノの分散和音の音符が多すぎる。弦楽が大波のような哀愁の旋律を奏で始める11小節目からは譜面の誤記がはっきり分かる。1小節に8分音符は8個しか入らないはずなのに、16個や17個、18個だったりする。16分音符にすべきところを、ラフマニノフは8分音符で書いているのだ。正しくは、8分音符が17個ある小節ならば16分音符8個と16分音符の9連符(8+9=17)、18個の小節ならば16分音符による9連符2つ(9+9=18)だろう。
ラフマニノフが記譜の誤りを犯すはずはない。意図的に音価2倍の8分音符で分散和音を表記し、大海の奔流のような大らかなイメージを視覚的にも表現しているのだろう。16分音符ではせせこましく見えてしまう。延々と続くピアノの分散和音は、本来の16分音符の音価をはみ出すほどの熱量を持つ激流でなければならないということか。荒海のようでもあり、ゴロゴロとなり続ける教会のいくつもの鐘の音のようでもある。
ずっと超絶技巧、カデンツァ無し
「ピアノ協奏曲第2番」は難曲といわれる。冒頭の和音からして、手が大きくないとキーを押さえられない。左手は1小節目から短10度、5小節目には長10度の音程の和音、右手は密集した1オクターブの音程の和音を弾かなければならない。それらが同時に鳴らないと荘重な鐘の音として響かない。実際には左手の和音をアルペジオで弾く世界的ピアニストもいる。身長2メートル、13度届く手を持つ巨漢だったラフマニノフ。自分以外のピアニストが演奏可能かどうかは考慮しなかったと思われる。続く分散和音も9連符を含んだり含まなかったりしてリズムの取り方が難しそうだ。
ラフマニノフはメロディーメーカーといわれるが、第1楽章ではピアノは旋律をほとんど弾かない。第1主題の緩やかな旋律を奏でるのは主に弦楽器であり、ピアノはひたすら速い分散和音をガラゴロと鳴らし続ける。第1主題の終わりの経過句はピアノが弾くし、第2主題の美しすぎる旋律も確かにピアノが歌う。しかし展開部でもピアノは速い分散和音と密集した和音を終始弾いている。
並みの手では弾けない難所続きだから、わざわざ超絶技巧を見せるためのカデンツァも無い。管弦楽に分かりやすい旋律を任せて、ピアノは最初から最後まで技巧的なカデンツァを弾き続けているともいえる。しかも美しすぎる第2主題は再現部ではホルンが2分音符と全音符に拡大して16小節吹くだけだ。こうした構成の簡素化によって第1楽章はモダンでスタイリッシュな趣をみせる。
第2楽章ではさすがにピアノも弦も木管も抒情的な美しい旋律を存分に歌い上げる。だがこの優しそうな緩徐楽章でこそ超高速の短いカデンツァが入るから一筋縄ではいかない。第3楽章はオリエンタルな雰囲気を醸し出す第2主題の名旋律が魅力だが、この終楽章でも旋律を奏でるのは主に管弦楽であり、ピアノは技巧的な分散和音や密集した和音、華麗な装飾的走句によって曲全体を盛り上げる。主役であるはずの美しい旋律よりも、引き立て役のピアノのコード弾きのほうに聴き手は魅せられることもある。
「ピアノ協奏曲第2番」はラフマニノフが神経衰弱から立ち直ったときの作品だ。1895年の「交響曲第1番ニ短調Op.13」の初演失敗で自信を失い、極度のノイローゼに陥った。「交響曲第1番」はロシア五人組のムソルグスキーの系譜を思わせ、当時の異端の作曲家スクリャービンに匹敵する新しさも感じさせる。ラフマニノフは自身の革新性を自負していたが、五人組の一人キュイらによって酷評された。「ピアノ協奏曲第2番」では「前衛」志向を改め、親しみやすさを備えつつ、新しい試みも忍ばせたロマン派音楽として成功した。
前衛が理解されるのはいつの時代でも難しい。1961年刊行の松本清張の長編推理小説「砂の器」は、現代音楽の中でも当時の最先端だった電子音楽「ミュージック・コンクレート」を扱っている。刑事の今西が百科事典を調べる場面で作曲家・諸井誠の「ミュージック・コンクレート」の用語解説を2ページに渡って引用しているほか、作者自身が登場人物の評論家になり切って書いたはずの公演レビューも載せている。さらには音響工学についてもページを割いて説明している。現代音楽に対する松本清張の洞察の深さには驚かされる。
小説は乾いた語り口で、情緒や感情、内面の告白を交えない。ヘミングウェイ並みに無駄な感情表現を省き、客観的な描写に徹し、淡々と事実を追っていく。過去の闇を持つ作曲家をはじめ、若い前衛芸術集団「ヌーボー・グループ」の登場人物たちはタフでクール。古いロマン主義を断ち切るのだ。現代音楽の知的で工学的、数学的な美しさが小説の文体にも反映されているかのようだ。黛敏郎「ミュージック・コンクレートのための作品“X,Y,Z”」、諸井誠「ピアノのためのαとβ」、湯浅譲二「内触覚的宇宙」あたりが「砂の器」の読書のBGMとしてはカッコよく、当時の雰囲気を反映して似合うだろう。
ところが野村芳太郎監督の映画「砂の器」(1974年)になると、父子の絆に重点が置かれる。橋本忍と山田洋次の脚本によって過去をめぐる場面の比重が格段に高まり、戦前から戦中・戦後の社会問題の深部に分け入り、抒情と人情が存分に描かれる。そして四季折々の北陸・山陰地方を巡礼姿の父子が旅する場面がハイライトになる。前衛作曲家はロマン派作曲家に置き換わり、流れる音楽は菅野光亮作曲「ピアノと管弦楽のための組曲『宿命』」(同映画の音楽監督は芥川也寸志)。ラフマニノフを想起させる哀切なロマンチシズム。映画の中での「宿命」の主題はラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」と同じハ短調。「運命」と「宿命」の調性である。
「砂の器」に限らず、映画はロマン派音楽に満ちている。20世紀は世界大戦とファシズムを経て、19世紀以来のロマン主義から脱却する現代音楽の動きが活発な時代だった。一方で映画の流行とともに新ロマン主義音楽が花開いた時代でもある。後者は21世紀の今も優勢であるように思える。ラフマニノフ人気が現代人の変わらない趣向を示している。
池上輝彦〔いけがみ・てるひこ〕
音楽ジャーナリスト。日本経済新聞社チーフメディアプロデューサー。早稲田大学卒。証券部・産業部記者を経て欧州総局フランクフルト支局長、文化部編集委員、映像報道部シニア・エディターを歴任。音楽レビュー、映像付き音楽連載記事「ビジュアル音楽堂」などを執筆。クラシック音楽専門誌での批評、CDライナーノーツ、公演プログラムノートの執筆も手掛ける。
日本経済新聞社記者紹介
文/ 池上輝彦
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