今月の音遊人
今月の音遊人:山下洋輔さん「演奏は“PLAY”ですから、真剣に“遊び”ます」
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サクソフォンのレッスンを続けていて、ふと気づいたことがある。
楽器を演奏するうえで、他の芸術表現などと大きく違うところはどこか。それは演劇などとも共通するのだが、人前で演奏するという行為を伴うということだ。演劇と同じだという点では、舞台表現というくくり方ができるかもしれない。
絵画や彫刻、あるいは工芸に分類されるかもしれない陶芸や折り紙、人形製作などは、アトリエでの孤独な作業工程の結果、作品が生まれる。こうして誕生した作品は、その成果を享受する購入者や美術展などの来場者と作家が直接、対面することを必要としない。つまり、発表の場に作家が立ち会うことが必ずしも求められていない。
それに対して音楽は、古くはレコードからCD、いまはネット配信などでの鑑賞を別とすれば、演奏者と観客の関係はたいへん重要である。演奏者である“表現する人”と、それを聴く観客の間に誕生するのが作品である音楽ということになるだろうか。
楽器演奏を習得するとき、あるいは声楽などの歌曲でもいいのだが、たゆまざる稽古を積み重ねるものである。しかし、不思議なことに、演奏会などで観客を前にすると、これまでのレッスンで習得したものが、微妙に変化していることに気がつく。
日常的なレッスンや充分な稽古を自主的に行ってきても、本番の舞台では、それが通用しないことを感じる。なんらかの化学反応とでもいえるものだろうか。それは観客との間だけではなく、演奏者同士の間でも起こる。
本番の舞台では、いつものテンポやリズムが、なんとなくそぐわないものに感じたりする。つまり楽曲のほうから、こうしてください、こっちのほうが気持ちよくて面白いですよ、と訴えかけてくるようだ。
あるいは、全体のノリとかグルーヴとかいうものかもしれない。楽曲自身が持っていた本来の姿が伝わってくる、ともいえる。それは観客と演奏者が一体となる、などとも表現される現象だ。
この感覚を体験すると、いわゆる“音楽がやみつきになる”という状態におちいる。演奏者にとって至宝の瞬間でもある。
こうして、僕たちは次の演奏会を待ち望むようになるのだった。
楽器のレッスンに通い始めたとき、誰にも、いつの日か演奏してみたいというミュージシャンの曲がいくつかあったはずです。私の場合は、まずはアルトサクソフォンならばこの曲という、ポール・デスモンドの『テイク・ファイブ』……だったのですが、いまだ手つかず状態。 その言い訳はまたの機会として、じつはデスモンドとともに敬愛しているのがチャーリー・パーカー。バードの愛称で、ジャズファンのみならず広く音楽ファンからも親しまれているアドリブの天才です。 そして、いよいよ。そのチャーリー・パーカーの『ビリーズ・バウンス』を教室で練習することになりました。「10年はやい!」という声も聞こえてきそうですが、レッスンも10年たちました。感無量です。
作家。映画評論家。1950年生まれ。桐朋学園芸術科演劇コース卒業。劇団の舞台演出を経て、小説、エッセイなどの文筆の分野へ。主な著書に『正太郎の粋 瞳の洒脱』『ぼくの父はこうして死んだ』『江分利満家の崩壊』など。2006年からヤマハ大人の音楽レッスンに通いはじめ、アルトサクソフォンのレッスンに励んでいる。
文/ 山口正介
photo/ 長坂芳樹(楽器)
tagged: 大人の音楽レッスン, サクソフォン, ヤマハ, レッスン, パイドパイパー・ダイアリー
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