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【ジャズの“名盤”ってナンだ?】#017 ジャズをつなぐエッセンスを詰め込んだ“絶好調”のポスト・ビバップ~ハンプトン・ホーズ『ザ・トリオ VOL.1』編
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2023.7.21
tagged: 音楽ライターの眼, ジャズの“名盤”ってナンだ?
1953年は、日本のジャズ史において最大とも評すべきエポックが並んだ年でした。
例えば、日本人の人気ジャズ・ミュージシャン4名によって5月に結成された“ビッグ・フォー”は、現在のジャニーズ系や韓流グループを凌ぐ熱狂を巻き起こしたと言われています。
また、8月に東京・水道橋の後楽園競輪場(後楽園球場の隣に建造された自転車レース用の施設で、コース内側のグラウンドでは各種スポーツ大会や自動車展示会などのイベントも行なわれていた。1988年、その跡地に現在の東京ドームが建設されている)で開催された“ジャズの祭典”や、9月に13日間のロングラン公演を東京・浅草国際劇場(客席数3,860席)で実施し10万人を動員したと言われている“世紀最大のジャズ・ショー”などビッグ・イヴェントも目白押しで、とにかくジャズを知らなきゃ時代の波に乗り遅れると思われていたのが、この時期だったのです。
一方のミュージシャン側では、人気のある(つまり稼げる)ジャズとは1920~30年代にアメリカで流行し、第二次世界大戦前の日本でもなじみがあったスウィング系のジャズだったものの、1940年代に勃興した(つまり戦時中の日本には伝えられなかった)ビバップに出逢い、そのインパクトに惹かれる人も少なくありませんでした。
衛星放送やインターネット網を介してほとんどタイムラグのない情報がもたらされる現在と違い、当時はアメリカで流行っているものが日本に伝わるまで半年以上、ヘタをすれば1~2年も経ってからという時代。
ジャズの情報を得るには、在日米軍向けに提供されていたラジオ放送(FENなど)を聴くか、海を渡って輸入されるレコードを入手するしかなかったのですが、唯一“生の情報”をもたらしてくれる存在がありました。
それは、朝鮮戦争のためにアメリカ本土から日本の米軍基地に派遣されてきた軍人のジャズ・ミュージシャンたちです。
だいぶ前置きが長くなってしまいましたが、日本に駐留していたそんな軍人ジャズ・ミュージシャンの代表格が、ハンプトン・ホーズでした。
ハンプトン・ホーズのアルバム『ザ・トリオ Vol.1』は、1955年6月に米ロサンゼルスのスタジオで収録されました。
メンバーは、ピアノがハンプトン・ホーズ、ベースがレッド・ミッチェル、ドラムスがチャック・トンプソン。
初出のLP盤には、A面に5曲、B面に5曲の計10曲が収録され、CD化された際も同数同順でリリースされています。
同メンバーは翌年にかけてレコーディングを続け、Vol.2とVol.3、合計3枚のトリオによるアルバムを残しています。
ハンプトン・ホーズは、1928年、米カリフォルニア州ロサンゼルス生まれ。
母親が教会のピアニストだったことから、物心つく前から母の膝のうえで音楽に親しみ、3歳ですでに大人顔負けのメロディを奏でることのできる才能を発揮していたそうです。
10代でウエストコースト・ジャズのシーンでも知られた存在となり、19歳のときに参加したバンドではチャーリー・パーカーとも共演。
つまり、弱冠20歳の時点でビバップのオリジネーターを相手にできる腕を備えた逸材であったということになります。
本作の制作は、ハンプトン・ホーズが徴兵のため駐留していた日本から戻ってすぐの26歳のとき。
チャーリー・パーカー直伝と言っても過言ではない怒涛のようなビバップのフレーズを繰り出すジャズ界の新星は大いに期待され、シリーズ化も視野に入れたアルバム制作の条件でレコード会社と契約に至り、当時のウエストコースト・ジャズの先進性やレヴェルの高さを知らしめるに足る内容と評される結果を残したのです。
ハンプトン・ホーズの日本での人気の高さは、やはり彼が日本に駐留し、1950年代の日本のジャズの進化に大きな影響を与えたことが関係していると言えるでしょう。
駐留時の音源は、神奈川・横浜にあったクラブ“モカンボ”での1954年7月のセッションが1曲だけ残されていますが、このときのコンディションが最悪で、彼の実力を示すものとは言えない内容でした(参照:アルバム『幻のモカンボ・セッション'54〈完全版〉』収録『テンダリー』)。
それに比べると、約1年後となる本作の演奏は“絶好頂”と言えるもので、スウィングやスタンダードの耳なじみのあるナンバーを饒舌かつ柔軟に変化させながら破綻なくエンディングへ導くという、アーティスティックとエンタテインメントのバランスがとれた、“名盤”の名にふさわしい仕上がりと言っていいでしょう。
なかでも冒頭の『アイ・ガット・リズム』は、チャーリー・パーカーを想起させる超速のパッセージを左手のコード・ワークでコントロールしながらメロディとして装飾していくという“神技的プレイ”を披露。
一転して『ソー・イン・ラヴ』では、歌心あふれるソロ・ピアノで(インストゥルメンタルなのに)歌詞にある切ない恋の気持ちを代弁するような情緒が“だだ漏れ”ています。
そんな硬軟自在な表現力こそが、日米を問わず次代を担う後続のプレイヤーたちの目標となり、現在もなおジャズのピアノ・トリオの“お手本”となり続けている──というわけなのです。
富澤えいち〔とみざわ・えいち〕
ジャズ評論家。1960年東京生まれ。学生時代に専門誌「ジャズライフ」などでライター活動を開始、ミュージシャンのインタビューやライヴ取材に明け暮れる生活を続ける。2004年に著書『ジャズを読む事典』(NHK出版生活人新書)を上梓。カルチャーセンターのジャズ講座やCSラジオのパーソナリティーを担当するほか、テレビやラジオへの出演など活字以外にも活動の場を広げる。専門誌以外にもファッション誌や一般情報誌のジャズ企画で構成や執筆を担当するなど、トレンドとしてのジャズの紹介や分析にも数多く関わる。『井上陽水FILE FROM 1969』(TOKYO FM出版)収録の2003年のインタビュー記事のように取材対象の間口も広い。2012年からYahoo!ニュース個人のオーサーとして記事を提供中。
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文/ 富澤えいち
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