Web音遊人(みゅーじん)

奏者と楽器と空間、三者がみごとに交わり、メシアンの音楽を包み込む/スティーヴン・オズボーン

奏者と楽器と空間、三者がみごとに交わり、メシアンの音楽を包み込む/スティーヴン・オズボーン

キリスト教、とりわけ西方教会の音楽というと、単旋律のグレゴリオ聖歌に始まり、さまざまな多声音楽、簡素な伴奏のもの、賑々しい管弦楽のついた大規模なもの、日々の礼拝に使うもの、儀式には用いないが聖書に題材を取るものなど、多種多様な姿を見せる。

20世紀のフランスの作曲家、オリヴィエ・メシアンのピアノ曲《幼子イエスに注ぐ20のまなざし 20 Regards sur l’Enfant-Jésus》も、そうしたヴァラエティー豊かなキリスト教の音楽のひとつだ。イエスの誕生日を題材に、20の楽章を連ねる。そこにはすべて、タイトルとモットーが付けられている。それを読むだけでもこの作品が、聖書のエピソードに深く拠っていることがわかる。とはいえこの曲は、礼拝のための音楽ではない。ピアノの独奏曲で、詩があるわけでもなく、キリスト教の音楽としてはとても抽象的だ。この曲は、メシアンの個人的な信仰心を、少し過剰に綴った作品と考えるのがよい。

重要なのはメシアンが、キリスト教を信仰していたことではなく、その信仰をどのように音にしていったかにある。さらに言えばピアニストが、メシアンの書いたその音を、どのように現実のものとしていくかが、聴き手にとってはいっそう大切だ。

その観点からすると、スティーヴン・オズボーンの演奏は、メシアン作品の過剰さに押しつぶされることなく、その細部をすくい上げることに力を注ぐ、優れたものだった。

《幼子イエス……》はその表現法の点で、さまざまなところがはみ出た作品だ。メシアンは、曲を弾く演奏家の技術、その技術を発揮する舞台であるピアノの機能性、そのピアノの音を響かせる演奏会場の音響特性それぞれの限界に、頓着せずに作曲しているように見える。だから演奏の現場ではたいてい、そのいずれか(もしくはすべて)で、表現がいっぱいいっぱいになってしまう。当夜のリサイタルで素晴らしかったのは、そうしたいっぱいいっぱいの場面が、奏者にも楽器にも会場にも、それほど目立たなかったこと。三者の音楽的な許容範囲が、それだけ広かったと言える。

たとえば、第3曲交換《L’échange》。同じテーマの繰り返しをオズボーンは、強弱記号の「p」がいくつも重なるような最弱音で開始。そこに息長く力強さを加えていく。やがて、会場全体が震えるような頂点を迎える。どんな弱音でも、聴こえず不満ということはなく、弱音が弱音として耳に届く。どんな強音でも、うるさいということはなく、すべての音がきちんと独立していることがわかる。奏者のコントロール、楽器の柔軟性、会場の音響特性が、余裕を持ってメシアンの音楽を包み込む。

第16曲《預言者、羊飼いと東方三博士のまなざし Regard des prophètes, des bergers et des Mages》も、そんな三者の交わる1点に支えられていた。リズムの錯綜や、音の重ね合わせの複雑さが目立つこの曲で、奏者はボタンを掛け違えることなく、両者を同時進行させる。ピアノは音を積み重ねても、響きのごった煮になることはない。絵の具の色をたくさん混ぜると黒くなるが、光の色を混ぜていくとやがて透明になる。この曲の和音は後者のように、複雑になればなるほど透明になっていくものだった。奏者にしろ楽器にしろ、こうした繊細すぎるバランス制御は、音が正直に響くステージでなければ実現できない。

奏者と楽器と空間、三者がみごとに交わり、メシアンの音楽を包み込む/スティーヴン・オズボーン

優れた演奏の折々で聴き手は、イエス誕生の一場面を思い浮かべたり、ある種の信仰心を呼び起こされたりもするだろう。そこにはつねに、作曲家、奏者、楽器、演奏空間の、音楽をめぐる綱引きや融合がある。2時間を超える当夜の演奏が、そのことを改めて教えてくれた。

澤谷夏樹〔さわたに・なつき〕
慶應義塾大学大学院文学研究科哲学専攻修士課程修了。2003年より音楽評論活動を開始。2007年度柴田南雄音楽評論賞奨励賞受賞。2011年度柴田南雄音楽評論賞本賞受賞。著書に『バッハ大解剖!』(監修・著)、『バッハおもしろ雑学事典』(共著)、『「バッハの素顔」展』(共著)。日本音楽学会会員、 国際ジャーナリスト連盟(IFJ)会員。

 

特集

今月の音遊人:H ZETT Mさん

今月の音遊人

今月の音遊人:H ZETT Mさん「音楽は目に見えないですが、その存在感たるやすごいなと思います」

29937views

音楽ライターの眼

カプースチンを紐付けるためのオーヴァーチュア

3870views

トランスアコースティックピアノ™

楽器探訪 Anothertake

音量の問題を解決し、ピアノの楽しみを広げる「トランスアコースティックピアノ」

3769views

購入前に知っておきたい!電子ピアノを選ぶときのポイントとおすすめ

楽器のあれこれQ&A

購入前に知っておきたい!電子ピアノを選ぶときのポイントとおすすめ機種

26706views

おとなの 楽器練習記 須藤千晴さん

おとなの楽器練習記

【動画公開中】国内外で演奏活動を展開するピアニスト須藤千晴が初めてのギターに挑戦!

7504views

オトノ仕事人

音楽フェスのブッキングや制作をディレクションする/イベントディレクターの仕事

12506views

サラマンカホール(Web音遊人)

ホール自慢を聞きましょう

まるでヨーロッパの教会にいるような雰囲気に包まれるクラシック音楽専用ホール/サラマンカホール

20250views

東京文化会館

こどもと楽しむMusicナビ

はじめの一歩。大人気の体験型プログラムで子どもと音楽を楽しもう/東京文化会館『ミュージック・ワークショップ』

7211views

武蔵野音楽大学楽器博物館

楽器博物館探訪

専門家の解説と楽器の音色が楽しめるガイドツアー

8196views

われら音遊人:年齢も職業も超えた仲間が集う 結成30年のビッグバンド

われら音遊人

われら音遊人:年齢も職業も超えた仲間が集う、結成30年のビッグバンド

9115views

山口正介

パイドパイパー・ダイアリー

大人の音楽レッスン、わたし、これでも10年つづけています!

6916views

太平洋に浮かぶ楽園で、小笠原古謡に恋をする Web音遊人

音楽めぐり紀行

太平洋に浮かぶ楽園で、小笠原古謡に恋をする

9634views

コハーン・イシュトヴァーンさん Web音遊人

おとなの楽器練習記

【動画公開中】ハンガリー出身のクラリネット奏者コハーン・イシュトヴァーンがバイオリンを体験レッスン!

9891views

小泉文夫記念資料室

楽器博物館探訪

世界の民族楽器を触って鳴らせる「小泉文夫記念資料室」

21817views

ジャズとデュオの新たな関係性を考える

音楽ライターの眼

ジャズとデュオの新たな関係性を考えるvol.8

3608views

オトノ仕事人 ボイストレーナー

オトノ仕事人

思い描く声が出せたときの感動を分かち合いたい/ボイストレーナーの仕事(後編)

8951views

われら音遊人 リコーダー・アンサンブル

われら音遊人

われら音遊人:お茶を楽しむ主婦仲間が 音楽を愛するリコーダー仲間に

7619views

Disklavier™ ENSPIRE(ディスクラビア エンスパイア)- Web音遊人

楽器探訪 Anothertake

限りなく高い精度で鍵盤とハンマーの動きを計測するヤマハ独自の自動演奏ピアノの技術

22709views

グランツたけた

ホール自慢を聞きましょう

美しい歌声の響くホールで、瀧廉太郎愛にあふれる街が新しい時代を創造/グランツたけた(竹田市総合文化ホール)

6835views

山口正介 Web音遊人

パイドパイパー・ダイアリー

マウスピースの抵抗?音切れ?まだまだ知りたいことが出てくる、そこが面白い

5631views

金管楽器のパーツごとのお手入れ方法 - Web音遊人

楽器のあれこれQ&A

金管楽器のパーツごとのお手入れ方法

15158views

東京文化会館

こどもと楽しむMusicナビ

はじめの一歩。大人気の体験型プログラムで子どもと音楽を楽しもう/東京文化会館『ミュージック・ワークショップ』

7211views

ポロネーズに始まりマズルカに終わる、ショパンの誇り高き精神をめぐるポーランドの旅 - Web音遊人

音楽めぐり紀行

ポロネーズに始まりマズルカに終わる、ショパンの誇り高き精神をめぐるポーランドの旅

29056views