Web音遊人(みゅーじん)

J.S.バッハの《コーヒー讃歌》

ああ、コーヒーのおいしいこと。1000回の接吻よりすばらしく、マスカット酒より甘い…… J.S.バッハ《コーヒー・カンタータ》の誕生秘話

数多くの宗教的な作品を残したJ.S.バッハが、「コーヒー・カンタータ」を作曲したのは、ドイツの古都ライプツィヒである。この都市は12世紀以来の伝統をもつ商業都市。学術、文化都市としても知られている。

バッハがこの地にやってきたのは1723年のこと。市の中心に位置する聖トマス教会のカントル(教会の音楽責任者)に任命されたからである。これは大変名誉ある職だが、実際はいくつもの教会の音楽に携わらなければならない非常にハードな職務だった。バッハはここで教会カンタータ約300曲を作曲したといわれている。

J.S.バッハの《コーヒー讃歌》

(写真左)聖トマス教会内部のバッハのお墓(写真右)聖トマス教会の内部

そんな多忙なバッハが心やすらぐひとときは、学生からなる演奏グループ、コレギウム・ムジクムを指導するときだった。彼らは音楽を心から楽しんで演奏しているグループで、バッハもその心意気に触発されてオペラ的な楽しい作品を書き、彼らと一緒に演奏している。

それが「コーヒー・カンタータ」という愛称で親しまれているカンタータ第211番「お静かに、しゃべらないで」だ。コレギウム・ムジクムは、夏はコーヒーガーデンで、冬はツィンマーマンのコーヒーハウスで演奏していた。聴衆はコーヒーを飲みながらコーヒーをめぐる音楽劇を楽しんだというわけである。

これはコーヒーにとりつかれた若い娘リースヒェンと、それをやめさせようとする頑固な父シュレンドリアンとのかけひきを愉快に描いた作品。娘はコーヒーを讃美する歌をうたって、いうことを聞こうとしない。

「お父さま、そんなに怒らないで。もしも朝昼晩コーヒーを飲ませてくださらないなら、干からびた牝山羊の焼き肉のようになってしまいます。ああ、コーヒーのおいしいこと。1000回の接吻よりすばらしく、マスカット酒より甘い」

父はそれならば結婚もさせないし、外にも出さないといい出す始末。これには娘も折れ、コーヒーをやめる代わりに結婚相手を今日中に見つけてと頼む。彼女は、コーヒーを許してくれる人とだけ結婚しようと密かに心に決めていたのである。
最後は「猫がネズミを逃がさぬように娘もコーヒーを離さない。お母さんもコーヒーが好き、おばあさまさえ飲んだのだから、だれが娘を叱ることができようか」とうたわれる。

当時のドイツではコーヒーが大流行し、最初は上流階級の人々の飲み物とされていたが、やがて庶民の間でも好んで飲まれるようになった。しかし、医師や識者は女性が飲むことに反対したようだ。

バッハが書いたユーモラスな曲は、そんな時代を風刺する意味も備え、人々に愛されて何度も演奏されたという。

ちなみにカンタータとはバロック時代の声楽曲の一種で、ストーリーをもち、独唱や重唱によって話が展開していく。これには教会カンタータと世俗カンタータがあり、世俗カンタータは教会とは関係ない儀式や冠婚葬祭などで演奏された。バッハはこの両分野に多くの傑作を残している。

クラシック以外の音楽でもコーヒーはよく登場する。代表的なのが、ジャズ・ボーカルのベテラン、ペギー・リーの名唱で知られる「ブラック・コーヒー」。これは失恋して孤独に陥っている女性が夜眠れず、気を紛らわすためにブラック・コーヒーを飲むという内容。ペギーの味わい深い低音が聴き手の心を魅了する。

いつの時代でも、コーヒーは文化や人々の心情との関わりが深いものなのかもしれない。

伊熊 よし子〔いくま・よしこ〕
音楽ジャーナリスト、音楽評論家。東京音楽大学卒業。レコード会社、ピアノ専門誌「ショパン」編集長を経て、フリーに。クラシック音楽をより幅広い人々に聴いてほしいとの考えから、音楽専門誌だけでなく、新聞、一般誌、情報誌、WEBなどにも記事を執筆。著書に「クラシック貴人変人」(エー・ジー出版)、「ヴェンゲーロフの奇跡 百年にひとりのヴァイオリニスト」(共同通信社)、「ショパンに愛されたピアニスト ダン・タイ・ソン物語」(ヤマハミュージックメディア)、「魂のチェリスト ミッシャ・マイスキー《わが真実》」(小学館)、「イラストオペラブック トゥーランドット」(ショパン)、「北欧の音の詩人 グリーグを愛す」(ショパン)など。2010年のショパン生誕200年を記念し、2月に「図説 ショパン」(河出書房新社)を出版。近著「伊熊よし子のおいしい音楽案内 パリに魅せられ、グラナダに酔う」(PHP新書 電子書籍有り)、「リトル・ピアニスト 牛田智大」(扶桑社)、「クラシックはおいしい アーティスト・レシピ」(芸術新聞社)、「たどりつく力 フジコ・ヘミング」(幻冬舎)。共著多数。 
伊熊よし子の ークラシックはおいしいー

 

特集

今月の音遊人:諏訪内晶子さん

今月の音遊人

今月の音遊人:諏訪内晶子さん「音楽の素晴らしさは、人生が熟した時にそれを音で奏でられることです」

13372views

音楽ライターの眼

そのピアニシズムは、人生に光を与える/ジャン=マルク・ルイサダ ピアノ・リサイタル

3772views

Disklavier™ ENSPIRE(ディスクラビア エンスパイア)- Web音遊人

楽器探訪 Anothertake

限りなく高い精度で鍵盤とハンマーの動きを計測するヤマハ独自の自動演奏ピアノの技術

13982views

楽器のあれこれQ&A

いつも清潔にしておきたい!ピアニカのお手入れ、お掃除方法

136898views

バイオリニスト石田泰尚が アルトサクソフォンに挑戦!

おとなの楽器練習記

【動画公開中】バイオリニスト石田泰尚がアルトサクソフォンに挑戦!

8706views

ホールのクラシック公演を企画して地域の文化に貢献する/音楽学芸員の仕事

オトノ仕事人

アーティストとお客様とをマッチングさせ、コンサートという形で幸福な時間を演出する/音楽学芸員の仕事

8181views

久留米シティプラザ - Web音遊人

ホール自慢を聞きましょう

世界的なマエストロが音響を絶賛!久留米の新たな文化発信施設/久留米シティプラザ ザ・グランドホール

13335views

Kitaraあ・ら・かると

こどもと楽しむMusicナビ

子どもも大人も楽しめるコンサート&イベントが盛りだくさん。ピクニック気分で出かけよう!/Kitaraあ・ら・かると

3570views

浜松市楽器博物館

楽器博物館探訪

世界中の珍しい楽器が一堂に集まった「浜松市楽器博物館」

21465views

われら音遊人:年齢も職業も超えた仲間が集う 結成30年のビッグバンド

われら音遊人

われら音遊人:年齢も職業も超えた仲間が集う、結成30年のビッグバンド

5723views

パイドパイパー・ダイアリー

パイドパイパー・ダイアリー

楽器は、いつ買うのが正解なのだろうか?

5973views

ポロネーズに始まりマズルカに終わる、ショパンの誇り高き精神をめぐるポーランドの旅 - Web音遊人

音楽めぐり紀行

ポロネーズに始まりマズルカに終わる、ショパンの誇り高き精神をめぐるポーランドの旅

23053views

おとなの 楽器練習記 須藤千晴さん

おとなの楽器練習記

【動画公開中】国内外で演奏活動を展開するピアニスト須藤千晴が初めてのギターに挑戦!

5200views

小泉文夫記念資料室

楽器博物館探訪

民族音楽学者・小泉文夫の息づかいを感じるコレクション

6978views

音楽ライターの眼

伝説のレーベル“ワックス・トラックス!”その栄枯盛衰を描いた映画『インダストリアル・アクシデント』の海外ブルーレイ発売

515views

楽器博物館の学芸員の仕事 Web音遊人

オトノ仕事人

楽器のデモンストレーション、解説、管理までをこなすマルチプレイヤー/楽器博物館の学芸員の仕事(前編)

7725views

みどりの森保育園ママさんブラス

われら音遊人

われら音遊人:子育て中のママさんたちの 音楽活動を応援!

4509views

STAGEA(ステージア)ELB-02 - Web音遊人

楽器探訪 Anothertake

スタイリッシュなボディにエレクトーンならではの魅力を凝縮!STAGEA(ステージア)「ELB-02」

10648views

武満徹の思い「未来への窓」をコンセプトに個性的な公演を/東京オペラシティ コンサートホール:タケミツメモリアル

ホール自慢を聞きましょう

武満徹の思い「未来への窓」をコンセプトに個性的な公演を/東京オペラシティ コンサートホール:タケミツ メモリアル

8114views

山口正介

パイドパイパー・ダイアリー

クラス分けもまた楽しみ、レッスン通いスタート

3345views

楽器のあれこれQ&A

モチベーションがアップ!ピアノを楽しく効率的に練習するコツ

34819views

ズーラシアン・フィル・ハーモニー

こどもと楽しむMusicナビ

スーパープレイヤーの動物たちが繰り広げるステージに親子で夢中!/ズーラシアンブラス

8298views

ポロネーズに始まりマズルカに終わる、ショパンの誇り高き精神をめぐるポーランドの旅 - Web音遊人

音楽めぐり紀行

ポロネーズに始まりマズルカに終わる、ショパンの誇り高き精神をめぐるポーランドの旅

23053views