今月の音遊人
今月の音遊人:姿月あさとさん「自分が救われたり癒やされたりするのは、やはり音楽の力だと思います」
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“最終的な状況”という意味をもつ“なれの果て”。その前提に、“落ちぶれた末の”という条件が付く。
言うまでもなく、その状況に良いイメージはない。
問題提起として、ジャズとクラシックという2つの音楽を俎上に載せ、前者が後者の“なれの果て”と言えるのかどうかを考えてみることにした。
ジャズがクラシックの“なれの果て”なのかどうかを検証してみたかったのは、ボク自身のなかに“ジャズよりクラシックのほうが格上”という意識がある気がしていたことに起因する。
小学生のときに通い始めたピアノ教室で最初に渡されたのはバイエルによるピアノ教則本だったし、親戚に頼んで連れて行ってもらった人生初のコンサートはN響の定期公演だった。
中学生だった1970年代前半、昼休みの校内放送でロック系の音楽を流すことがかろうじて“許される”ようにはなっていたけれど、学校で“学ぶ”のはクラシックだった。
少なくともジャズは、教育(教養)から離して語られるべき音楽という認識が一般的だった。“不良の音楽”というレッテルは、ある一面で事実を表わしていて、それ故に少年少女たちの興味を煽っていたことも事実だろう。
歴然と存在したはずの“格差”が薄れてきたと感じるようになったのは、21世紀を迎えたころのことだろうか。
ここからは私見だが、「1980年代後半の自国の好景気を背景に日本企業がアメリカのエンターテインメント事業へ進出」し、「アメリカのオリジナル文化として建国200年祭でも注目されていたジャズの資産」を改めて掘り起こしたり整理したりすることで再構築に成功して、「ジャズを理論立てて語れるようになった」ことが、世界的にもジャズの文化的なポジションを飛躍的に向上させたのではないかと思っている。
例えば、それまで在庫管理がされていなかったアメリカの倉庫から、未発表の音源が続々と出てきたことで、いままでは“点”にすぎなかった事象を“線”としてつなげられるようになったことが、その証明材料になるかな。
本稿では、ジャズはクラシックと“肩を並べる”までになったのかどうか、その経緯はどうだったのかについてこれ以上は触れない(たぶん)。
問題にしたいのは、ジャズ側のクラシックに対する“目線”が変わってきたのではないかということ。
次回は、まずジャズの歴史のなかでクラシックとの距離感がどうだったのかを駆け足でまとめてみたい。そのあとに、クラシックを意識した最近のジャズ作品を取り上げていこうと思っています。
富澤えいち〔とみざわ・えいち〕
ジャズ評論家。1960年東京生まれ。学生時代に専門誌「ジャズライフ」などでライター活動を開始、ミュージシャンのインタビューやライヴ取材に明け暮れる生活を続ける。2004年に著書『ジャズを読む事典』(NHK出版生活人新書)を上梓。カルチャーセンターのジャズ講座やCSラジオのパーソナリティーを担当するほか、テレビやラジオへの出演など活字以外にも活動の場を広げる。専門誌以外にもファッション誌や一般情報誌のジャズ企画で構成や執筆を担当するなど、トレンドとしてのジャズの紹介や分析にも数多く関わる。『井上陽水FILE FROM 1969』(TOKYO FM出版)収録の2003年のインタビュー記事のように取材対象の間口も広い。2012年からYahoo!ニュース個人のオーサーとして記事を提供中。
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文/ 富澤えいち
tagged: ロック, ジャズ, ジャズとクラシックの関係性
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