Web音遊人(みゅーじん)

新たな音を生み出して音で空間を表現する/サウンド・スペース・コンポーザーの仕事

都内にある「井出 研究所」を訪れると、本格的な音響機材から子ども向けのおもちゃまで、音の実験道具であふれていた。「おもしろい物がいっぱいあるでしょ」と、井出 研究所 所長であり“サウンド・スペース・コンポーザー”の井出祐昭さんは話す。遊び心満載のオフィスで生まれるのは、今までにない新たな音。商業施設やプラネタリウム、映画館など、日常のさまざまな空間にマッチするように音をプロデュースするのが、井出さんの仕事だ。

「例えば光と音を比べたとき、“光”という言葉を聞くと、未来的な印象で捉える人が多いかと思います。反対に“音”という言葉は、少し古めのものをイメージすると思うんです。そうではなく、“音”という言葉を聞いたとき、そのなかに“未来”の要素を含ませていくこと。これが“サウンド・スペース・コンポーザー”の役割であり、僕の使命だと思いながら、音に向き合い続けてきました」

そうした自身の役割を感じるようになったきっかけは、JR東日本の新宿駅と渋谷駅の発車メロディを開発したことからだという。かつて使われていた発車ベルは、焦りをもたらすような響きの音だった。そこで井出さんは、「人の気持ちに寄り添い、聴いた人の気分を良い方向に変える」ことを指針とし、従来の発車ベルの音から、ピアノや鐘の音をベースにした美しさにハッとするメロディを生み出した。音の新たな一面が誕生した瞬間だった。今では多くの駅で導入され、発車メロディは私たちの日常に当たり前のものとして存在している。

2006年にオープンした複合的商業施設「表参道ヒルズ」の音響も手がけた。歩きながらさまざまな空間に出会える特殊な音響デザインに。

井出さんが最も力を注いでいるのが医療の分野だという。1999年、ヒューストンにある「MDアンダーソンキャンサーセンター」に2年半通い、がん治療にまつわる苦痛軽減に取り組む世界的なチームとともに研究を重ねた。治療の際に起こる苦痛や、心因性の病は、薬や手術などの物理療法で解決しないことが多い。そこで井出さんの生み出す音に“代替医療”としての可能性が見出されたのだ。

研究の中で井出さんが開発したのは、その場にいながら空間移動ができる「立体音響システム」。このシステムは、室内の八方向に設置されたスピーカーから音が流れる仕組みになっている。実際に聴いてみると、足元からは波の音が聴こえ、後方からは海鳥の鳴き声がする。音だけで、まるでリゾートビーチにいる感覚だ。こうした音がシチュエーションを変えていくつかあり、聴いた人が旅に出たかのような気分になれる。

「私たちもつらい出来事があったら、まじめに向き合おうとしてもそう簡単には解決しませんよね。そういうときは旅行をすると一旦忘れたりしますよね?それと同じように、音響システムを使って、患者さんにビーチや森林などの別の空間にいる気分になってもらい、ストレスが軽減するかを観察していきました。実際に使った患者さんは、表情が和らいで恐怖感がなくなっていくようでした。それを見て、やはり音楽の力ってすごいなと。音楽が心を癒す効果を目の当たりにできました」

この経験を踏まえて、2013年に、ストレス軽減を目的に「佐賀県医療センター好生館」の待合ロビーで流す音を一からつくりあげた。そのときに井出さんがヒントとしたのは、人間の体内で細胞の死や新生をつかさどる“アポトーシス”という現象だ。

「アポトーシスの現象の動きを数値化し、音符に変換してみたんです。すると、ちゃんと音楽になっているんですよ」

その音楽は体の内側に染みわたるような音色で、既存のBGMでは感じることのできないものだった。“新生”を意味するアポトーシスの名のとおり、病院を訪れる人の心の重石が溶けて、前を向けるような音、心のなかに未来の光が差し込むような音が生みだされたのだ。この取り組みは各方面からも注目され、全国メディアでも紹介された。

佐賀県医療センター好生館の待合ロビー。吹き抜けの開放的なロビーに、井出さんが作った音が響き渡る。音の効果で患者さんも病院スタッフも癒やされる空間に。

幼少期から、演奏する人によって音が変わるのはなぜかということを考えていた井出さん。その結果、「心」に関係があるのではないかと気づいたという。

「例えばコンサートに行くと、演奏者も観客も感動する瞬間がありますよね。単純に音を鳴らすだけでは感動は起こらないはずです。互いの想いがエネルギーとして空気振動に乗って、心から心に届けられるというのが、音を介して感動するメカニズムなんだと考えています」

音楽ははるか昔から、歴史上のどの時代、どの国にもあり、人の心を癒やしてきた。

「人の生涯よりもはるかに長い間存在するものです。だから僕は、音楽に関わることを一生の仕事としてやるに応えるものだと思ったんです」

そして、“音の未来”についても語ってくれた。

「万葉集に“幽けき(かそけき)”という言葉があります。『今にも消えてしまいそうなほどかすかな様子』という意味です。静寂のなかにも、音を感じる言葉ですよね。“音の未来”を考えたときに、日本人のそうした繊細な感覚や、“無音”や“間”を大切にしてきた感性で、日本人なりの音楽ができていくのではないかと思っています。実際に音はないけれども、感動や感激が起こるような。これが僕の想像する“音の未来”のひとつです。あとは、音楽を聴いて心が解放されることによって免疫力が上がるとか。言葉が通じなくても心が通じることがあるように、音がコミュニケーションツールとして働いたり。そうしたことが本当にできたらいいなと思いますね」

世の中にはすでに多くの音や音楽があふれているが、それでもなお、井出さんは新たな可能性を探る。井出さんが生み出す“音の未来”に期待するとともに、私たちも日常から新たな発見をしていきたい。音の可能性はまだまだ無限大だ。

Q.子どもの頃になりたかった職業は?
A.漠然と、音楽の仕事に就きたいと思っていました。幼少期から音楽に触れられる環境にあり、家にSP盤というレコードがたくさんあったので、それを聴いていました。子どもなので、投げて遊んだりもしましたが(笑)。学生時代に器楽部に入っていた影響も大きいですね。

Q.音楽に関わる仕事ではなかったら何をされていましたか?
A.おそらく建築の仕事をしていたと思います。今も音をどう組み立てて形にするかという点で、建築と同じことをしているので。あとは、今医療に関わっているということから、なれるかどうかは別として、医者も考えられますね。

Q.好きな音楽を教えてください。
A.1970〜80年代のジャズが好きです。ウェザー・リポートとか、マイルス・デイヴィスあたりですね。あとは、グスタフ・マーラーやハイドンなどのクラシックの曲を毎日のように聴いています。とくにマーラーの10番は、人生の最後に聴きたいくらい好きです。

Q.休日はどう過ごされていますか?
A.サックスの練習が30%くらいで、あとは猫と遊んでいます。それと、散歩も好きでよくしています。音楽を聴きながらではなく、ふつうに散歩することで、実はいろいろな情報が感覚に入ってくるんですよ。

Q.日常の中で取り入れられる、音を使った癒しの方法はありますか?
A.小さなスピーカーを部屋の隅に向けて壁に当てるように置き、ゆったりとした曲をできるだけ小さい音で流してみてください。そうすると、音が床や壁に反射して部屋の中で充満するんです。音を耳で聴いているというよりも、体で感じるような感覚になれます。あとは、お風呂に入るときに、防水スピーカーを窓に向け、波の音や鳥の声などの自然の音を流してみてください。お風呂場だと音が反響しますので、外から自然の音が入ってくるように感じられます。露天風呂に浸かっている気分になりますよ。

井出祐昭サイト
井出 研究所サイト

特集

出口大地

今月の音遊人

今月の音遊人:出口大地さん「命を懸けて全力で取り組んだ先でこそ、純粋に音楽を楽しむ心を忘れてはいけない」

2555views

音楽ライターの眼

レスリー・ウェストの追悼CDボックス2作が発売。暑苦しい夏は暑苦しいロック・ギターで

2805views

CLP-800シリーズ

楽器探訪 Anothertake

グランドピアノの演奏体験を全身で感じられる電子ピアノ── クラビノーバ「CLP-800シリーズ」

2403views

トロンボーン

楽器のあれこれQ&A

初心者なら知っておきたい、トロンボーンの種類や選び方のポイント

13818views

おとなの 楽器練習記 須藤千晴さん

おとなの楽器練習記

【動画公開中】国内外で演奏活動を展開するピアニスト須藤千晴が初めてのギターに挑戦!

8510views

オトノ仕事人

深く豊かなクラシックの世界への入り口を作る/音楽ジャーナリストの仕事

5126views

アクトシティ浜松 中ホール

ホール自慢を聞きましょう

生活の中に音楽がある町、浜松市民の音楽拠点となる音楽ホール/アクトシティ浜松 中ホール

15009views

東京文化会館

こどもと楽しむMusicナビ

はじめの一歩。大人気の体験型プログラムで子どもと音楽を楽しもう/東京文化会館『ミュージック・ワークショップ』

7763views

上野学園大学 楽器展示室」- Web音遊人

楽器博物館探訪

伝統を引き継ぐだけでなく、今も進化し続ける古楽器の世界

13259views

5 Gravities

われら音遊人

われら音遊人:5つの個性が引き付け合い、多様な音楽性とグルーヴを生み出す

2080views

山口正介

パイドパイパー・ダイアリー

大人の音楽レッスン、わたし、これでも10年つづけています!

7295views

太平洋に浮かぶ楽園で、小笠原古謡に恋をする Web音遊人

音楽めぐり紀行

太平洋に浮かぶ楽園で、小笠原古謡に恋をする

10458views

コハーン・イシュトヴァーンさん Web音遊人

おとなの楽器練習記

【動画公開中】ハンガリー出身のクラリネット奏者コハーン・イシュトヴァーンがバイオリンを体験レッスン!

10566views

武蔵野音楽大学楽器博物館

楽器博物館探訪

世界に一台しかない貴重なピアノを所蔵「武蔵野音楽大学楽器博物館」

23051views

音楽ライターの眼

連載21[ジャズ事始め]空前のジャズ・ブームの陰で“新しい発見”を求める同志が出逢っていた

2358views

アカネキカク akaneさん

オトノ仕事人

楽曲のイメージをもとに、ダンスの振りを考え、演出をする/振付師の仕事

2677views

われら音遊人:「非日常」の充実感が 活動の原動力!

われら音遊人

われら音遊人:「非日常」の充実感が活動の原動力!

8274views

楽器探訪 Anothertake

改めて考える エレクトーンってどんな楽器?

134906views

紀尾井ホール

ホール自慢を聞きましょう

専属の室内オーケストラをもつ日本屈指の音楽ホール/紀尾井ホール

14929views

山口正介さん Web音遊人

パイドパイパー・ダイアリー

いまやサクソフォンは趣味となったが、最初は映画音楽だった

6945views

楽器のあれこれQ&A

初心者必見!バイオリンの購入ポイントと練習のコツ

21010views

こどもと楽しむMusicナビ

“アートなイキモノ”に触れるオーケストラ・コンサート&ワークショップ/子どもたちと芸術家の出あう街

7112views

ポロネーズに始まりマズルカに終わる、ショパンの誇り高き精神をめぐるポーランドの旅 - Web音遊人

音楽めぐり紀行

ポロネーズに始まりマズルカに終わる、ショパンの誇り高き精神をめぐるポーランドの旅

31094views