今月の音遊人
今月の音遊人:諏訪内晶子さん「音楽の素晴らしさは、人生が熟した時にそれを音で奏でられることです」
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1912年(明治45年/大正元年)、サンフランシスコに向かって横浜を出向した客船・地洋丸に乗り込んだ“波多野バンド”が、アメリカから流行のダンス音楽を仕入れ、その後の日本にジャズが芽生える土壌づくりに大いなる貢献を果たした――という話が前回の概要だった。
波多野バンドの演奏は、その後も太平洋航路の人気企画となり、1918年(大正7年)まで船のステージを受け持つことになる。
この時期、アメリカのホテルのラウンジやレヴュー小屋などで演奏されていたのは、「アレキサンダーズ・ラグタイム・バンド」「スマイル」「ウィスパリング」「スリー・オクロック・イン・ザ・モーニング」「レット・ミー・コール・ユー・スイートハート」「テル・ミー」「ダーダネラ」といった曲だった(YouTubeで聴けるので探してみてください)。波多野バンドをはじめ続々と太平洋航路に乗り込むことになった楽隊のメンバーたちは、こうした曲をレパートリーにしていったものと思われる。
これらの曲は“社交ダンスの伴奏曲”として知られるものだが、アメリカで流行していたボールルーム(=ダンスホール)に集う人たちにとって、ワンステップ・スタイルの単調で緩やかなリズムの踊りは時代遅れと感じられていた。
そこに登場したのが、変則的でテンポの速い“フォックス・トロット”という踊りだった。
フォックス・トロット自体は、ジャズの前身でもあるラグタイムに合わせて踊れるように考えられた振り付けで、1913年にハリー・フォックスが自らの名前を付けて発表し、全米に広がった。これにチャールストンなどが加わって、アメリカのダンス・ブームは“激しいリズムで踊る”というものが主流になり、そうした踊りのもととなったジャズの人気も高まっていくことになる。
必然的に、太平洋航路の楽隊メンバーたちは、こうしたアメリカでの“激しいダンス・ブーム”を後押ししたジャズの台頭を意識せざるをえない立場にあったというわけだ。
とはいえ、船上は“日本ではない”からこそ、“アメリカの最先端の音楽で踊る”ことが許容されていたのかもしれない。
日本に、アメリカ発で世界を席巻していたフォックス・トロット(とジャズ)がやってくるのは、1918年ごろのことだった。
最初は、洋行帰りの識者や舞踊家らが周囲の好事家に伝授するだけだったものが、大正バブルと呼ばれた第一次世界大戦時の好景気のなかで庶民の娯楽として受け入れられ、各地にボールルーム(日本ではダンスホールという呼称が一般的かな)が雨後のたけのこのように生まれることになるのだけれど、その端緒と言われるのが神奈川・鶴見の花月園だ。
この、日本の民間常設ダンスホールの草分けがオープンしたのは1920年(大正9年)。
そして翌年、すでに船の仕事を辞していた波多野福太郎率いる楽団が、アメリカ仕込みの“ジャズ”を引っさげ、「フォックス・トロットを踊れるダンスホール」を前面に押し出して、花月園に出演する。
次回は、日本で最初にジャズ演奏が常設で提供されたとされる花月園のエピソードをさらって、次なるキーパーソンの話題に移っていきたい。
参考:内田晃一『日本のジャズ史=戦前・戦後』スイング・ジャーナル社
富澤えいち〔とみざわ・えいち〕
ジャズ評論家。1960年東京生まれ。学生時代に専門誌「ジャズライフ」などでライター活動を開始、ミュージシャンのインタビューやライヴ取材に明け暮れる生活を続ける。2004年に著書『ジャズを読む事典』(NHK出版生活人新書)を上梓。カルチャーセンターのジャズ講座やCSラジオのパーソナリティーを担当するほか、テレビやラジオへの出演など活字以外にも活動の場を広げる。専門誌以外にもファッション誌や一般情報誌のジャズ企画で構成や執筆を担当するなど、トレンドとしてのジャズの紹介や分析にも数多く関わる。『井上陽水FILE FROM 1969』(TOKYO FM出版)収録の2003年のインタビュー記事のように取材対象の間口も広い。2012年からYahoo!ニュース個人のオーサーとして記事を提供中。
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