今月の音遊人
今月の音遊人:上原ひろみさん「初めてスイングを聴いたときは、音と一緒に心も躍るような感覚でした」
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奥泉光は芥川賞作家で、現在は同賞の選考委員でもあり、先日も谷崎潤一郎賞を受賞した、現在の日本を代表する作家の一人だ。その一方でTwitterのプロフィール欄に「場所柄をわきまえず、やたらと吹くフルーティスト」と書くような、ギター、チューバ、フルート、ピアノなど次々に手を広げてきたマルチ(?)演奏家で、音楽愛好家でもある。好みはクラシックとジャズ、とりわけシューマンを偏愛している。
この『シューマンの指』はシューマンの生誕200年にあわせて書き下ろされた、長篇の、いちおうミステリーである。大変特異な作品で、何しろバランスが悪い。つまり、作者のシューマン愛がほとばしりすぎたかのような風体をしているのだ。
語り手の「私」が高校時代の旧友・鹿内堅一郎から受け取った手紙で小説は始まる。やはり高校時代の仲間だった永嶺修人がドイツでシューマンのピアノ協奏曲を弾くのを見たと伝えたものだ。だが、修人はある事件で右手中指を失っていた。「私」は修人の指が切断された瞬間を目撃していた。再生は絶対に不可能なはずだ。果たして鹿内の見た修人は…?
そそくさ気味に設置が済まされたそんな謎をめぐって、天才ピアニスト永嶺修人と、音大ピアノ課を受験しようとしている「私」の物語が始まる…のだが、同時に、シューマン個人およびシューマン諸作品に対する議論も堰を切ったように繰り広げられ始める。議論を載せるための器に物語が作られているのではと疑うほど溢れんばかりに。たとえば、シューマンの代表曲の一つである『幻想曲』第3楽章について「私」はこう内面でモノローグする。
「第一主題と第二主題の中間に置かれた下降する旋律が帰ってくると、三度目の冒頭アルペジオの音型が、深みへ、深みへと、人を誘うかのように、今度はD♭で現れる。と、それはすぐにFになり、あるいはCの主調に戻りしながら、第二主題が懐かしい昔話のように騙られていく」
ほとんど評論文である。箇所によってはもっと高踏的な音楽論が、地の文といわず、会話といわず、横溢している。ミステリーらしい謎解きに入るのはようやく4分の3も過ぎたあたりからか。伏線の役割を果たしてもいるとはいえ、この過剰さは…と考えて似た小説があったことを思い出した。
トーマス・マン『ファウスト博士』。ベートーヴェン最後のピアノソナタ作品111がなぜ第2楽章で終わっているのかをめぐる長い議論が挿入されることで知られるが、一見、逸脱に思えるこの議論は作品の主題と密接に関わっていた。
同様のことが『シューマンの指』にもいえないか。象徴する箇所を抜き出せばここだろう。修人が『ダヴィッド同盟舞曲集』の楽譜を前にいう台詞。
「僕が弾くわけないさ。だって、弾く意味がない。音楽はもうここにある。(中略)僕はもうこの音楽を聴いている。頭のなかでね。だったら、いまさら音にしてみる必要がどこにある?」
音楽を聴くとは?演奏とは?
そんな問いこそがむしろ忍ばされた本当の謎なのではないか——そう疑うと作品は様相を変え始めるだろう。
最後にヒントを。「修人」とは「修=シュー、人=マン」だそうだ。
『シューマンの指』
奥泉 光著
講談社文庫
648円(税抜)
2012年10月刊