Web音遊人(みゅーじん)

【ジャズの“名盤”ってナンだ?】#057 マッチョなジャズに反旗を翻したエポックメイキングな“声”~チェット・ベイカー『チェット・ベイカー・シングス』編

最近(といってもこの10年ぐらいというスパンの話になりますが)、チェット・ベイカーの“生きざま”にスポットを当てた映画が2本も公開されていて(2016年公開の『ブルーに生まれついて』と2019年公開の『マイ・フーリッシュ・ハート』)、1988年に58歳で亡くなったこの不世出のトランペッター&ヴォーカリストの評価が生前よりも高まっていることを感じていました。

チェット・ベイカーを扱った映画といえば、著名なファッション・フォトグラファーであるブルース・ウェーバーがメガホンを握ってチェット・ベイカー本人が登場するドキュメンタリー的な作品『レッツ・ゲット・ロスト』(1989年公開)を最初に挙げるべきですが、没後30年を迎えようとする2010年代後半に役者を配してチェット・ベイカーという動くアイコンを蘇らせようとしたことにボクは、映画の公開当時も驚きながら観に行ったことを覚えています。

そのあまりにも悲劇的な音楽人生が「映像作家たちにとって魅力的な題材に感じられた」というだけでは腑に落ちない“なにか”があったから、ボクはそれらの映画に“驚き”を感じていたのだと思うのです。

そしてなによりもその最大の違和感をもたらしている、本作に漂う“安らぎ”を、改めて解読してみたいと思います。


チェット・ベイカー・シングス/チェット・ベイカー

アルバム概要

1954年と1956年にカリフォルニア州のスタジオで収録された作品です。

1954年に10インチのLP盤が8曲収録でリリースされ、1956年には新たに録音した6曲を加えた12インチのLP盤をリリース。CD化では12インチ盤をもとに同曲数同曲順で構成されています。

10インチ盤のメンバーは、ヴォーカル/トランペットがチェット・ベイカー、ピアノ/チェレスタがラス・フリーマン、ベースがカーソン・スミスとジョー・モンドラゴン、ドラムスがボブ・ニール。12インチ盤ではさらにベースのジミー・ボンド、ドラムスのローレンス・マラブルとピーター・リットマンが加わっています。

収録曲はすべてジャズ・スタンダードと呼ばれるもので、ミドルからスローなテンポまでの曲を並べて、ソフトな声質でささやくように歌うチェット・ベイカーを“ヴォーカリストとして位置づけ”ようとする意図が感じられる企画になっています。

“名盤”の理由

本作収録の『マイ・ファニー・ヴァレンタイン』によって、マイルス・デイヴィスと人気を二分するジャズ・トランペッターだったチェット・ベイカーは、一気にポピュラー・ミュージック・アーティストとしての名声も手に入れました。

1950年代当時、ジャズを歌う男性ヴォーカリストは、両雄にルイ・アームストロングとフランク・シナトラの名が挙げられるように、マッチョイズムの強い表現を一般的としていました。

そこへ現われたのが、中性的でフェミニンとも感じられるチェット・ベイカーのヴォーカル・スタイルで、それはある意味、ジャズに対するノックアウト級のカウンターパンチだったのだと思います。

その前兆にマイルス・デイヴィスの『クールの誕生』があるというものの(チェット・ベイカーは『クールの誕生』に共感を覚えていたと言われています)、チャーリー・パーカーにも認められた力量のトランペット演奏ではなく、“歌”という新しい“武器”を携えてシーンに挑戦状を叩きつけたわけです。

その挑戦状は見事に波紋を広げ、国境を越えてブラジルへ渡った余波はボサノヴァを誕生させるといった、ジャズの多様化に大きな貢献を果たす結果にもなりました。

いま聴くべきポイント

チェット・ベイカーは自分の歌声に対して、自らの性自認を反映させたものとは考えていなかった(つまり中性的な発声と歌い方が自身の性自認を主張するものではなかった)ようなのですが、周囲の反応は違っていました。

前述のようなマッチョイズムとは正反対のスタイルに対して、否定的な感情を抱くリスナーも少なくなかったということなのです。

しかしチェット・ベイカーは、自分がいちばん自然なかたちで音楽と向き合える手段としてそれらを選び、それをあえてジャズというカテゴリーのなかで表現することを選びました。

そう考えると本作の魅力は、当時とらえられていたような「(マッチョイズムが主流な)ジャズにおいて儚げな歌い方で世間を驚かせたアルバム」というところから、いまなら「レイシズムにとらわれかけていたジャズに多様性をもたらして、芸術性を広げたアルバム」と修正することができるのではないかと思うのです。

「ジャズの“名盤”ってナンだ?」全編 >

富澤えいち〔とみざわ・えいち〕
ジャズ評論家。1960年東京生まれ。学生時代に専門誌「ジャズライフ」などでライター活動を開始、ミュージシャンのインタビューやライヴ取材に明け暮れる生活を続ける。2004年に著書『ジャズを読む事典』(NHK出版生活人新書)を上梓。カルチャーセンターのジャズ講座やCSラジオのパーソナリティーを担当するほか、テレビやラジオへの出演など活字以外にも活動の場を広げる。専門誌以外にもファッション誌や一般情報誌のジャズ企画で構成や執筆を担当するなど、トレンドとしてのジャズの紹介や分析にも数多く関わる。『井上陽水FILE FROM 1969』(TOKYO FM出版)収録の2003年のインタビュー記事のように取材対象の間口も広い。2012年からYahoo!ニュース個人のオーサーとして記事を提供中。
富澤えいちのジャズブログ富澤えいちのジャズ・ブログ道場Facebook

特集

今月の音遊人

今月の音遊人:上原彩子さん「家族ができてから、忙しいけれど気分的に余裕をもって音楽と向き合えるようになりました」

7342views

音楽ライターの眼

レスリー・ウェストの追悼CDボックス2作が発売。暑苦しい夏は暑苦しいロック・ギターで

3056views

CLP-800シリーズ

楽器探訪 Anothertake

グランドピアノの演奏体験を全身で感じられる電子ピアノ── クラビノーバ「CLP-800シリーズ」

2912views

楽器のあれこれQ&A

ドラムの初心者におすすめの練習方法や手が疲れないコツ

11849views

バイオリニスト石田泰尚が アルトサクソフォンに挑戦!

おとなの楽器練習記

【動画公開中】バイオリニスト石田泰尚がアルトサクソフォンに挑戦!

13519views

オトノ仕事人 ボイストレーナー

オトノ仕事人

思い描く声が出せたときの感動を分かち合いたい/ボイストレーナーの仕事(後編)

9759views

メニコン シアターAoi

ホール自慢を聞きましょう

五感で“みる”ことの素晴らしさを多くの方と共感したい/メニコン シアターAoi

3746views

ズーラシアン・フィル・ハーモニー

こどもと楽しむMusicナビ

スーパープレイヤーの動物たちが繰り広げるステージに親子で夢中!/ズーラシアンブラス

15322views

ギター文化館

楽器博物館探訪

19世紀スペインの至宝級ギターを所蔵する「ギター文化館」

15833views

横浜レンタル倉庫(YRS)

われら音遊人

われら音遊人:目指すはフェス! 楽しみ、楽しませ、さらなる高みへ

2306views

パイドパイパー・ダイアリー Web音遊人

パイドパイパー・ダイアリー

あれから40年、おかげさまで「音」をはずさなくなりました

5046views

ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブにサルサ!キューバ音楽に会いに行く旅 - Web音遊人

音楽めぐり紀行

ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブにサルサ!キューバ音楽に会いに行く旅

26976views

【動画公開中】沖縄民謡アーティスト上間綾乃がバイオリンに挑戦!

おとなの楽器練習記

【動画公開中】沖縄民謡アーティスト上間綾乃がバイオリンに挑戦!

9801views

上野学園大学 楽器展示室」- Web音遊人

楽器博物館探訪

伝統を引き継ぐだけでなく、今も進化し続ける古楽器の世界

13740views

音楽ライターの眼

【ジャズの“名盤”ってナンだ?】#023 ジャズ界の“彗星”が遺したハード・バップからの決別宣言~エリック・ドルフィー『アット・ザ・ファイヴ・スポット VOL.1』編

2953views

オトノ仕事人

プラスマイナス0.05ヘルツまで調整する熟練の技/音叉を作る仕事

34915views

われら音遊人

われら音遊人

われら音遊人:人を楽しませたい!それが4人の共通の思い

7185views

サイレントブラス

楽器探訪 Anothertake

“練習”の枠を超え人とつながる楽しさを「サイレントブラス」

5547views

久留米シティプラザ - Web音遊人

ホール自慢を聞きましょう

世界的なマエストロが音響を絶賛!久留米の新たな文化発信施設/久留米シティプラザ ザ・グランドホール

20413views

サクソフォン、そろそろ「テイク・ファイブ」に挑戦しようか、なんて思ってはいるのですが

パイドパイパー・ダイアリー

サクソフォンをはじめて10年、目標の「テイク・ファイブ」は近いか、遠いのか……。

8820views

初心者におすすめのエレキギターとレッスンのコツ!

楽器のあれこれQ&A

初心者におすすめのエレキギターと知っておきたい練習のコツ

25140views

こどもと楽しむMusicナビ

サービス精神いっぱいの手作りフェスティバル/日本フィル 春休みオーケストラ探検「みる・きく・さわる オーケストラ!」

10616views

ポロネーズに始まりマズルカに終わる、ショパンの誇り高き精神をめぐるポーランドの旅 - Web音遊人

音楽めぐり紀行

ポロネーズに始まりマズルカに終わる、ショパンの誇り高き精神をめぐるポーランドの旅

32559views