今月の音遊人
今月の音遊人:松井秀太郎さん「言葉にできない感情や想いがあっても、音楽が関わることで向き合える」
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連載16[ジャズ事始め]“上海リヴァイヴァル”を象徴する「上海バンスキング」とアジア・ジャズの序章
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2020.7.15
1979年(昭和54年)に小劇場で初演。ロングランとなっただけでなく、短期間で2度も映画化された「上海バンスキング」は、前稿で触れた“上海リヴァイヴァル”の日本における顕著な例といえるかもしれない。
斎藤憐の筆によるこの戯曲は、オンシアター自由劇場の主宰者だった串田和美が彼に「ミュージカルのような芝居の脚本を」と依頼したことから生まれた。斎藤憐はそのオファーに対して、1936年(昭和11年)に上海へ赴いたクラリネット奏者とその妻を軸としたストーリーを設定し、ジャズメンらの生態を取り入れながら、エンタテインメントの華やかな世界と軍靴が迫る時世の変化を対比させた舞台を創り上げた。
ちなみに“バンスキング”のバンスとは英語のadvance borrowing(前借り)を省略した日本語で、興行の世界ではこうした略語を符丁のように使うことが珍しくない。
契約金代わりの前渡し金のほかに、レギュラー出演者には支払い予定分のギャランティーを担保にした借金を許していたそうだ。だから、バンスキングとは“前借り王”。
興行主も出演者を確保する意味で“前借り”を“縛り”として利用し、出演者は不安定な生活の穴埋めにするだけでなく、自分の利用価値(つまり“前借り”を断られない限り自分には居場所があるという意味)を確認するかのように借金を重ねていったようだ。
実際には生産性や計画性のある“バンス”などほとんどなく、破滅的な結末が伝えられることが多い。「上海バンスキング」もまた、こうした“狂騒の1920年代”が生んだ明暗が、テーマのひとつになっている。
斎藤憐は、2004年に上梓した『ジャズで踊ってリキュルで更けて―昭和不良伝 西條八十』(岩波書店)でもこの時代に注目。西條八十を中心に、野口雨情、中山晋平、サトウ・ハチロー、古賀政男、服部良一といった、第二次世界大戦前から戦後にかけての“日本の歌”を生み出したクリエイターたちを取り上げて、一時代を築いた“哀歌”の背景を描写している。
そのタイトル、“ジャズで踊ってリキュルで更けて”は、西條八十が作詞を手がけた映画「東京行進曲」の主題歌の一節だった。
映画公開(と主題歌のリリース)は1929年(昭和4年)。まさに“狂騒の1920年代”の日本(銀座)の風俗を反映させたキーワードであり、モボ・モガと呼ばれた“流行に敏感な若者たち”が、ジャズの香りのなかに“自由都市・上海”を透かし見ていたに違いないとする斎藤憐の推測を、ボクも支持したい。
そして1980年代以降、斎藤憐がそうだったように、リアルな音楽演奏の場でも、アジア発という視点のジャズの試みがいくつか見られていた。もしかしたら、魔都・上海の幻影に呼び起こされたかのようなムーヴメントだったといえるかもしれないと思いながら、次回はそのあたりに分け入ってみたい。
富澤えいち〔とみざわ・えいち〕
ジャズ評論家。1960年東京生まれ。学生時代に専門誌「ジャズライフ」などでライター活動を開始、ミュージシャンのインタビューやライヴ取材に明け暮れる生活を続ける。2004年に著書『ジャズを読む事典』(NHK出版生活人新書)を上梓。カルチャーセンターのジャズ講座やCSラジオのパーソナリティーを担当するほか、テレビやラジオへの出演など活字以外にも活動の場を広げる。専門誌以外にもファッション誌や一般情報誌のジャズ企画で構成や執筆を担当するなど、トレンドとしてのジャズの紹介や分析にも数多く関わる。『井上陽水FILE FROM 1969』(TOKYO FM出版)収録の2003年のインタビュー記事のように取材対象の間口も広い。2012年からYahoo!ニュース個人のオーサーとして記事を提供中。
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