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今月の音遊人:原田慶太楼さん「音楽によるコミュニケーションには、言葉では決して伝わらない『魔法』があるんです」
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連載32[ジャズ事始め]渡辺貞夫ら先輩たちから受けた“愛のムチ”と佐藤允彦の決意まで
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2021.3.15
1966年、渡辺貞夫と入れ替わるように、バークリー音楽大学留学のためにアメリカへ飛び立ったのが、ピアニスト/作・編曲家の佐藤允彦だ。
1941年東京生まれの佐藤は、「ずっとピアノをやっていた」ような家庭環境だったが、高校生になるころに父親の事業の影響で経済的な不安を抱えるようになったと、その著書『すっかり丸くおなりになって…』(1997年、メーザー・ハウス刊)に記している。
そんなとき、息子の将来を案じた母親がこう言ったそうだ。
「お父さんこの先どうなるかわからないから、あなたもいざというときに困らないように自活できる道を考えておきなさい。ずっとピアノやってきたんだからなにかそれを生かすことができないかしら……そうだわ、ジャズっていうのがあったじゃない?アメリカに行ける人がいるくらいですもの、日本でも仕事があるわよ」
「そんなこと言ったって、どうすればジャズができるようになるんだよ?」
「そうねぇ。それが問題ね」
(引用:同上)
ちなみに、“アメリカに行ける人”というのは、そのころバークリー音楽大学に留学した穐吉敏子のことである。
そのときたまたま紹介されたのが、飯田龍夫という人物。飯田龍夫は飯田ジャズスクールを立ち上げた、戦後日本のジャズ教育のパイオニアだ。このあとすぐに、佐藤允彦はジャズと“恋仲”になるから、“縁は異なもの”というべきか。
16歳の佐藤は、飯田から貸してもらったジャズのアルバム(フランキー・カールのピアノソロによるSP盤でA面とB面それぞれに1曲ずつ収録)を1週間で採譜して弾いてみせた。「ふーむ、君は私が特に教えなくてもひとりでやっていける。あとは実地を見学して経験を積むことだね」(引用:同前)と言って、“ジャズの現場”へ送り出してくれたという。
こうして“手に職”ならぬ“指に職”を付けた早熟の高校生は、1年ちょっとで日本のトップ・ジャズ・グループ、ジョージ川口とビッグ4+1に加入して活躍するようになっていた。
1960年3月、慶應義塾高等学校の卒業式当日も昼から渋谷、夜は有楽町でライヴ出演があった彼は、総代の役目を友人に“肩代わり”してもらったというエピソードを明かしている(『一拍遅れの一番乗り』2002年、スパイス・カムパニー・リミテッド刊)。
「さて、今日曲がりなりにもこの世界の一隅で生きていられるのも、あの時期があったればこそと感謝しているのは、十八歳でジョージ川口とビッグ4+1にスカウトされた時である。そのときの二人のサックス奏者、宮沢昭、渡辺貞夫両先輩の鍛え方はかなりのものでありました。それを“しごき”とも“いびり”とも思わなかったのは、お二人の温かさが充分に感じられたからだろう」(『いつもライヴは気分よく』1989年、音楽之友社刊)
ジャズの有名曲を覚えていることはもちろん、それをどんな調でも弾ける対応力が必要であることを、最前線で闘っていた先輩たちは教えようとしていたことがうかがえる。
そして、その教えを瞬く間に吸収してしまう才能を、先輩たちは頼もしく思いながら、より厳しく育てようとしたのかもしれない。
母親の見込みどおり、成人を待たずに日本ジャズ・シーンの最前線へと躍り出た佐藤允彦だったが、彼はそれで満足しなかったようだ。
そして、日本の先輩たちの“実践的な”教えとは異なる、自分にとってのジャズを考えるためにアメリカへと向かうことになった。
次回は、彼の書き残している文章から、彼が直面した“ジャズの現実”を拾っていきたい。
富澤えいち〔とみざわ・えいち〕
ジャズ評論家。1960年東京生まれ。学生時代に専門誌「ジャズライフ」などでライター活動を開始、ミュージシャンのインタビューやライヴ取材に明け暮れる生活を続ける。2004年に著書『ジャズを読む事典』(NHK出版生活人新書)を上梓。カルチャーセンターのジャズ講座やCSラジオのパーソナリティーを担当するほか、テレビやラジオへの出演など活字以外にも活動の場を広げる。専門誌以外にもファッション誌や一般情報誌のジャズ企画で構成や執筆を担当するなど、トレンドとしてのジャズの紹介や分析にも数多く関わる。『井上陽水FILE FROM 1969』(TOKYO FM出版)収録の2003年のインタビュー記事のように取材対象の間口も広い。2012年からYahoo!ニュース個人のオーサーとして記事を提供中。
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