Web音遊人(みゅーじん)

ホールの空間を広げるピリオド楽器の“怪”と“快”/珠玉のリサイタル&室内楽 ベートーヴェン初期の室内楽 ~鈴木・小倉・岡本が創る新時代の幕開け~

ヤマハホールらしからぬ光景が目の前に広がる。舞台の上にあるピアノは黒光りしていないし、「YAMAHA」の金文字や「Bösendorfer」の髭文字も刻まれていない。調律師もヤマハの技術者ではない(古典鍵盤楽器製作者・太田垣至さん)。
それもそのはず、この楽器は演奏者の持ち込んだフォルテピアノで、ウィーンの製作家アントン・ヴァルターの作った楽器(1795年)を模している。弦楽器の2人も1800年前後のセッティングか、それに近い状態の楽器で演奏に臨む。いわゆるピリオド楽器だ。

2021年7月11日のコンサートにはバイオリン奏者の岡本誠司、チェロ奏者の鈴木秀美、フォルテピアノ奏者の小倉貴久子の3人が出演し、ベートーヴェンの室内楽を披露した。3つの楽器それぞれのソナタに、全員集合の三重奏曲を加えた全4曲のプログラム。

バイオリンの岡本は、弦楽器と管楽器の音色を、弓づかいとビブラートで弾き分ける。曲の中での役割を踏まえているから、単なる物真似ではなく、作品の中にきちんと居場所を持った音を出す。
フォルテピアノはもともと音域によって音色がはっきりと違う。楽器のなかに“老若男女の役者”を閉じ込めているわけだ。奏者の小倉はさらに、彼ら“登場人物”のセリフに句読点をしっかりと打つので、“おしゃべり”への参加人数が多くても、その会話は決してごっちゃにならない。
チェロの鈴木秀美は3人のうち最年長。その貫禄はつねに新鮮な演奏の中にあらわれる。たとえば同じ音形の繰り返しでも、子音(音の出端の雑音成分)を変え、母音(発音後の音の広がり)を改めるので、ニュアンスが刻々と変化する。

そんな3人が顔を揃えた三重奏曲第1番は圧巻だった。最初、舞台から客席へと放射状に広がっていた音響空間が、短調の局面を境に舞台後方に奥行きを広げる。フォルテピアノのペダルづかいが空間を拡張するのだろう。管弦楽のホルンのような役割を担っているのだ。それに呼応して弦楽器陣が母音の残し方を変える。ダブルリード楽器のようなどこか滑稽な響きを、バイオリンが奏でてみたりもする。

第3楽章スケルツォの活発な長短短リズムも、終楽章の伸びやかな短長リズムも、弓づかいの巧みな弦楽器奏者と、弓づかい同様の力動を鍵盤から引き出すピアニストのおかげで、しっかりとして煮崩れない。一方で面取りもしてあるから適度に柳腰にもなる。


スカイダイビング直前のような緊張感と、そこからふわりと着地するときのような安堵感との振幅も大きいし、音響空間の拡げ方も大胆で、これはまるで交響曲だと思わされる。それでいて、室内楽曲の丁寧さがその土台に。だから演奏は、繊細な手つきで大胆なサウンドを、鷹揚な仕草で細やかな情緒を表現できる。

ベートーヴェンの室内楽は交響曲と地続き。ただし、シンフォニーが縮小したのではない。濃縮したのだ。その濃い世界を進むのに、ピリオド楽器は最適なコンパスであり、地図であると、この日の演奏が改めて教えてくれた。

澤谷夏樹〔さわたに・なつき〕
慶應義塾大学大学院文学研究科哲学専攻修士課程修了。2003年より音楽評論活動を開始。2007年度柴田南雄音楽評論賞奨励賞受賞。2011年度柴田南雄音楽評論賞本賞受賞。著書に『バッハ大解剖!』(監修・著)、『バッハおもしろ雑学事典』(共著)、『「バッハの素顔」展』(共著)。日本音楽学会会員、 国際ジャーナリスト連盟(IFJ)会員。

photo/ Ayumi Kakamu

本ウェブサイト上に掲載されている文章・画像等の無断転載・無断使用を固く禁じます。

facebook

twitter

特集

今月の音遊人

今月の音遊人:富貴晴美さん「“音で遊ぶ人”たちに囲まれたおかげで型にはまることのない音作りができているのです」

3655views

ホーカン・ハーデンベルガー

音楽ライターの眼

「地上で最高のトランペット奏者」と評されるその演奏に恍惚とする/ホーカン・ハーデンベルガー トランペット・リサイタル

11170views

楽器探訪 Anothertake

ピアノならではのシンプルで美しいデザインと、最新のデジタル技術を両立

6253views

楽器のあれこれQ&A

初心者必見!バイオリンの購入ポイントと練習のコツ

17581views

おとなの楽器練習記

【動画公開中】注目の若手ピアニスト小林愛実がチェロのレッスンに挑戦!

8839views

オペラ劇場の音楽スタッフの仕事 - Web音遊人

オトノ仕事人

舞台上の小さなボックスから指揮者や歌手に大きな安心を届ける/オペラ劇場の音楽スタッフの仕事(後編)

12395views

札幌コンサートホールKitara - Web音遊人

ホール自慢を聞きましょう

あたたかみのあるデザインと音響を両立した、北海道を代表する音楽の殿堂/札幌コンサートホールKitara 大ホール

16715views

Kitaraあ・ら・かると

こどもと楽しむMusicナビ

子どもも大人も楽しめるコンサート&イベントが盛りだくさん。ピクニック気分で出かけよう!/Kitaraあ・ら・かると

5405views

浜松市楽器博物館

楽器博物館探訪

見るだけでなく、楽器の音を聴くこともできる!

12768views

われら音遊人

われら音遊人:アンサンブル仲間が集う仲よしサークル

8652views

パイドパイパー・ダイアリー

パイドパイパー・ダイアリー

音楽知識ゼロ&50代半ばからスタートしたサクソフォンのレッスン

7240views

太平洋に浮かぶ楽園で、小笠原古謡に恋をする Web音遊人

音楽めぐり紀行

太平洋に浮かぶ楽園で、小笠原古謡に恋をする

8781views

おとなの楽器練習記

【動画公開中】ギタリスト木村大とピアニスト榊原大がトランペットに挑戦!

6590views

武蔵野音楽大学楽器博物館

楽器博物館探訪

世界に一台しかない貴重なピアノを所蔵「武蔵野音楽大学楽器博物館」

20858views

音楽ライターの眼

ブラッド・メルドーの『アフター・バッハ』は“無の境地”に至るショートカットなのかもしれない

5126views

宮崎秀生

オトノ仕事人

ホールや劇場をそれぞれの目的にあった、よりよい音響空間にする専門家/音響コンサルタントの仕事

552views

われら音遊人

われら音遊人:アンサンブルを大切に奏でる皆が歌って踊れるハードロック!

4409views

【楽器探訪 Another Take】ベルの彫刻デザインとマウスピースも一新

楽器探訪 Anothertake

ベルの彫刻デザインとマウスピースも一新

8453views

秋田ミルハス

ホール自慢を聞きましょう

“秋田”の魅力が満載/あきた芸術劇場ミルハス

3632views

パイドパイパー・ダイアリー Web音遊人

パイドパイパー・ダイアリー

楽器は人前で演奏してこそ、上達していくものなのだろう

7300views

初心者必見!バンドで使うシンセサイザーの選び方

楽器のあれこれQ&A

初心者必見!バンドで使うシンセサイザーの選び方

22180views

こどもと楽しむMusicナビ

“アートなイキモノ”に触れるオーケストラ・コンサート&ワークショップ/子どもたちと芸術家の出あう街

6287views

ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブにサルサ!キューバ音楽に会いに行く旅 - Web音遊人

音楽めぐり紀行

ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブにサルサ!キューバ音楽に会いに行く旅

23648views