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アフロ記者が挑む!笑いと涙の「40年ぶりのピアノレッスン」書籍『老後とピアノ』/稲垣えみ子インタビュー

元朝日新聞論説委員で、“アフロ記者”として知られる稲垣えみ子さんが、ピアノに夢中ということをご存じだろうか。新刊の『老後とピアノ』(ポプラ社)には小学校以来、40年ぶりにピアノのレッスンに取り組む様子がつづられている。その悪戦苦闘ぶり、一進一退の日々には、思わず笑顔も涙もこぼれてしまう。ピアノの練習において立ちはだかる壁や、くじけてしまう心情、そして音楽に真摯に向き合うことで得られた感動が、実に細やかに、かつ分析的に書かれているのだ。稲垣さんにピアノへの思いを尋ねながら、版を重ねている本の魅力を紹介しよう。

弾けない!楽譜が読めない!ピンチの連続

「全然弾けないし、楽譜の読み方もちっとも覚えてない。だから必死の練習しかないですよね。楽しい楽しくないを超えた、ピンチでやばい毎日でした」
ピアノを再開し始めた時のことを、稲垣さんはこう振り返る。新聞社を退職後、再び鍵盤に触れるきっかけとなったのは、ピアノの置いてある近所のブックカフェ。そこで偶然、ピアノ雑誌『ショパン』の会長と出会い、原稿の執筆を頼まれた。最初はクラシックの知識なんてゼロだから無理と断ったというが、「何度かの押し問答の末、八方丸く収まると思いついたのが、かねていつかは再開したいと思っていたピアノを習う様子を連載することでした」。同誌からピアノの先生を紹介してもらい、原稿料はそのレッスン代とカフェでのピアノ使用料に当てるという妙案も思いついた。同時にそれは、連載を続けるためにピアノの練習も否応なく継続しなければいけない、という過酷なサイクルの中に自らを放り込むことでもあった。

そうして始まったピアノとの格闘の日々。『老後とピアノ』には、指を動かしては愕然とし、楽譜を見ては絶望する稲垣さんの心の叫びが、ページから飛び出してきそうな勢いで綴られている。
<簡単どころか大事業ではないか! まず何よりも、鍵盤ってこうも重いものだったのかと心底驚く。自分の指が自分じゃないみたいに頼りない><楽譜を見た私は、しばし、絶句した。えーっと……どう目を凝らしても100パーセントナゾの暗号にしか見えない。(中略)『嬰ハ短調』ってことは……起点となる「ド」がそもそもシャープ?いやーそんな世界がこの世にあったんですね……っていうか、なんでわざわざこんなヤヤコシイことを? 何かの嫌がらせ?>(『老後とピアノ』より)

人生は下り坂、でも希望をくれたピアノ

それでも、毎日2時間の練習を欠かさなかったという稲垣さん。腱鞘炎や脳の老化を疑う事象など崖から突き落とされるようなことがたびたび起こっても、ピアノの先生に聞いたり、インターネットで検索したりしながら打開策を見いだしては、なんとか這い上がっていく。そして、本書の最後には、発表会でピアノを披露するというひとつの山に、見事たどり着くのだ。あたかも冒険物語を読んでいるように、手に汗握りながらページをたぐってしまう人もいることだろう。

それにしても、50代半ばの稲垣さんが「老後とピアノ」なんて気が早過ぎる気もする……。そんな疑問に対して稲垣さんは、「下り坂をどう生きていくかって、すごく大事なことなんですね」と、真剣に答えてくれた。
「そんなに、うまくならないんですよ、やっぱり若い頃からやってる方と比べたら、指も全然回らない。訓練をいくら繰り返しても限界がある。昨日できていたことができなくなる、下っていくこともある。それでも、その時にもちゃんと希望を持てることをピアノに学んだ、ということを書きたかったんです」

何百年も続く音楽のリレーの一員に

その希望とは、さまざまな人々によって愛されて残ってきた楽曲をいま自分が弾き、数百年も前の人々の精神に触れられるという奇跡だという。
「私は、ポピュラーを弾きたいという気持ちはないんです。クラシックが弾きたい。だって数百年も昔の人が作ったものを弾くことは、例えばショパンが200年近く前にやっていた動きと同じような体の動きをしていることになる。それって、ほとんどその人を追体験しているようなもの。クラシックを『聴く』ことが好きって人もたくさんいると思うんですけど、実際に弾くと大天才の作曲家との出会い方のレベルが全然違う。その人の癖や思考法、発想が何となくわかる。きっと性格が悪かったに違いない、とか(笑)」

さらには、自らもクラシック音楽のバトンをつないでいくリレーの一員になることに、喜びを感じるのだという。
「数百年も残ってきた曲を自分がまた弾くことによって、次の世代の人が弾く手助けをほんのちょっとだけ、してるんだと思うんです。いつかは死ぬ存在の自分が、後の人にいいバトンをつないでいける一員であるということが、この歳になってくると、すごくほっとする。超有名曲だけど難しくて、『何これ!?』って思うこともあるけれど、考えてみたら何百年も昔、ドレスを着た貴族のお嬢様もキーッと言いながら弾いていたに違いない。そう思うと、その人が身近で親しみが持てる存在になる。それは、ピアノを弾くようになって初めて得た感覚。やがては消えていく、はかない一生を生きるのは人間の悲しみのひとつだと思うんですが、今、一生懸命やっていたら、ものになるとかならないとかは別にして、やってること自体がいいものなんだっていう確信を、ピアノから与えてもらったんです。本当に感謝してるんです、ピアノに」

だから、稲垣さんは、ピアノを聞いた人からこんな言葉をかけてもらった時、とても嬉しくなるという。
「それ、なんていう曲ですか?」

■インフォメーション

書籍『老後とピアノ』

発売元:ポプラ社
価格:1,650円(税込)
発売日:2022年1月19日
詳細はこちら

photo/ 山田ミユキ

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