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【クラシック名曲 ポップにシン・発見】(Phase15)ブルックナー生誕200年、「交響曲第3番」第1稿の怪物性、ワーグナーファンの受難
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2024.1.10
tagged: 音楽ライターの眼, ワーグナー, ベートーヴェン, クラシック名曲 ポップにシン・発見, マーラー, ブルックナー
2024年はオーストリアの作曲家アントン・ブルックナー(1824~96年)の生誕200年。習作から第0~9番まで全11曲ある交響曲のうち「第3番ニ短調『ワーグナー』」は毀誉褒貶が激しい。ワーグナーに気に入られ献呈を許されたが、ウィーンの楽壇からは嘲笑と批判を浴び、生涯に第3稿まで改訂した。しかしワーグナーファンの慎ましい教員が無心で書いた第1稿は怪物的な生命力を持つ。孤高のブルックナー100%にしたいところだが、そこはポップにシン・発見。マイケル・フランクスを関連付けてみよう。
世間知らずで風采の上がらない独身の中年男性が、権謀術数渦巻く大都会ウィーンにやってきたらどうなるか。リンツ近郊アンスフェルデン村に生まれたブルックナーは、教員の父を12歳で亡くす。聖フローリアン修道院で宗教と音楽を学んだ後、家族の困窮を憂慮し、教師の道を選ぶ。リンツ大聖堂のオルガニストを経て、1868年、43歳でウィーン音楽院教授に就任した。
ブルックナーが交響曲やワーグナーの楽劇を深く知るようになったのは、上京の数年前にすぎない。オルガンの演奏法や対位法、通奏低音を教えることができても、音楽史や芸術論など学問に明るいわけでもない。しかも芸術音楽への憧れ、とりわけ交響曲を書いて発表したいという願望が、既得権益を持つ人々の警戒心を刺激し、苦難を招く。ワーグナー派とブラームス派が対立するウィーンの楽壇や学界の中で、子供のように無防備な地方出身者が政争に巻き込まれていったのだ。
ブルックナーがウィーン移住後に作曲したのは「交響曲第2番ハ短調」(1871~72年)と「同3番ニ短調」(72~73年)。彼は73年夏、バイロイトで祝祭劇場の建設と楽劇4部作「ニーベルングの指環」の作曲に取り組んでいた巨匠ワーグナーを訪ね、「第2番」か「第3番」を献呈したいと懇願する。ワーグナーは「第3番」に興味を示し、献呈を承認した。
ワーグナーが気に入ったのは第1楽章冒頭のトランペットの主題。薄暗い森のざわめきのように弦楽が静かに響き渡り、遠くからトランペット主題が姿を現す。この8小節の主題は完全4度下行と完全5度下行、1オクターブ下行の動きを持ち、全音符や2分音符を中心にした広大なもの。4小節目には3連符も登場し、歌劇「タンホイザー」の「序曲」「巡礼の合唱」と楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の「序曲」を融合して短調にしたような趣を持つ。いかにもワーグナー好みの主題だ。
ワーグナーが認めたのは第3番の草稿だが、それに最も近いのは第1稿。演奏時間は80分近い。その後の第2稿の約60分、第3稿の約55分と比べて長大だ。歴史的には第3稿が完成形として主に演奏されてきた。
ベートーヴェン「第九」との共通点と違い
第1稿ではワーグナーのオペラからの引用とも思える楽節がいくつも登場する。第1楽章には「トリスタンとイゾルデ」の「愛の死」や「ワルキューレ」の「眠りの動機」。第2楽章では「タンホイザー」の「巡礼の合唱」に似た旋律が弦楽のゼクエンツを伴って現れる。
さらに注目すべきはベートーヴェンとの比較だ。第1楽章は明らかにベートーヴェンの「交響曲第9番(第九)」の第1楽章を意識している。両曲とも弦楽のざわめきの中から完全4度と完全5度下行の第1主題が立ち上がる。調性も同じニ短調で、弦楽が対位法的に主題と絡む。だが決定的な違いがある。ベートーヴェンが主題労作として第1主題を変奏し展開させるのに対し、ブルックナーはトランペット主題をワーグナーのオペラの示導動機のように繰り返し使うのだ。
第1楽章の展開部はフォルテッシッシモ(fff)の総奏で頂点を築くが、これがトランペット主題そのもの。しかも主調のニ短調のままだ。技巧を凝らし緻密に積み上げた先の頂点が、単純明快な総奏なのだ。聴き手はここで作曲家の無垢な魂を感じ取り、ベートーヴェンとワーグナーの止揚を実感する。第4楽章ではトランペット主題から派生した第1主題が登場し、終結部ではその連携性からトランペット主題がニ長調で現れて輝かしく閉じる。
第1稿の運命は悲惨だ。ブルックナーはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団に初演を働きかけたが、演奏不可能として拒絶される。ブルックナーの交響曲の特徴、例えば、暁暗から立ち上がってくる開始の仕方、ソナタ形式を浮き彫りにする全休止、執拗なゼクエンツ、主題が別の楽章に顔を出す循環形式、1小節を2拍と3連符に分割するリズム、ワーグナーの楽節の引用などは当時、素人的で奇異だと見做されたに違いない。
ブルックナーはさらに初演を目指し、他人の批判を聞き入れて第2稿を書いた。ワーグナー楽節の引用に近い部分も削除し、流れを良くした。だがその分、誇大妄想的な巨大性や新奇性は薄まった。自らの指揮で第2稿を初演したのが1877年。これが大失敗に終わる。嘲笑の中を聴衆が次々に去る。最後まで残った支持者の一人が、ウィーン音楽院の学生だった17歳のマーラー。
マーラーはブルックナーの依頼を受け、「第3番」第2稿を4手用ピアノ版に編曲し1880年に出版した。しかしマーラーが愛着を持ったのは第1稿だろう。ブルックナーが1889年に第3稿を完成させる際、マーラーは第1稿を支持したという。なぜ第1稿を好んだのかは、マーラーの「交響曲第2番ハ短調『復活』」や「同3番ニ短調」を聴けば分かる。躊躇せず創造力を爆発させること――、マーラーはそれを学び取ったはずだ。ブルックナーの「第3番」第1稿の怪物性はマーラーの長大な交響曲群に通じる。
オマージュとしての「ワーグナー交響曲」。現代のポップスにもオマージュ作品はあるが、崇拝の対象が曲名に入った例は少ない。一例はマイケル・フランクスの「アントニオの歌」(1977年)。ボサノバの巨匠アントニオ・カルロス・ジョビンに捧げた歌だが、崇拝対象を超えて独自の都会的サウンドを編み出した。この曲がJポップに与えた影響も大きい。
ブルックナーとマーラーは後期ロマン派の二大交響曲作家だが、音楽性は異なるといわれる。だがマーラーは「ワーグナー交響曲」第1稿を通じてブルックナーの原初の創造性とつながっていた。オマージュ作品は新たな生命力を放ち、次代を動かす。
池上輝彦〔いけがみ・てるひこ〕
音楽ジャーナリスト。日本経済新聞社チーフメディアプロデューサー。早稲田大学卒。証券部・産業部記者を経て欧州総局フランクフルト支局長、文化部編集委員、映像報道部シニア・エディターを歴任。音楽レビュー、映像付き音楽連載記事「ビジュアル音楽堂」などを執筆。クラシック音楽専門誌での批評、CDライナーノーツ、公演プログラムノートの執筆も手掛ける。
日本経済新聞社記者紹介
文/ 池上輝彦
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