
今月の音遊人
今月の音遊人:岡本真夜さん「親や友達に言えない思いも、ピアノに聴いてもらっていました」
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2025年1月20日、ジョン・サイクスが亡くなったことが彼の公式サイトとSNSで発表された。死因は癌で、2024年12月後半に亡くなったという。65歳だった。
ジョンは「尻を蹴り上げる」(本人談)ことを得意とするギタリストだった。1982年、シン・リジィに加入して、アルバム『サンダー・アンド・ライトニング』(1983)ではそれまでツイン・ハーモニー・リードで知られたバンドのサウンドにマシンガン・ピッキング速弾きを持ち込んだ。続いて彼はホワイトスネイクに参加。1960〜70年代のオールド・ブリティッシュ・ロックに根差した音楽性をヘヴィ・メタリックに突然変異させた『白蛇の紋章』(1987)を世界的な大ヒット作へと押し上げた。
どちらのバンドも彼が加入した時点で独自のスタイルを確立させており、大音量のディストーション・ギターで殴り込みをかけてきた彼は下手をすれば“外敵”と見做されかねない存在だった。だが、彼のパワフルで鮮度の高いプレイは、両バンドに新しい魅力を吹き込むことになった。そのテクニックと存在感、“絵になる”ヴィジュアルなどにより、彼は時代を代表するギター・ヒーローのひとりとなった。
(ホワイトスネイクの『グレイテスト・ヒッツ』(2022)にジョンの速弾きをフィーチュアした『スライド・イット・イン』別ヴァージョンが収録されて、ファンを驚喜させた)
そんな一方で、彼は時代に翻弄されたミュージシャンでもあった。初のリーダー・バンドとして始動したブルー・マーダーのアルバム『ブルー・マーダー』(1989)は“ゲフィン・レコーズ”からプッシュを受け、MTVでも『ヴァリー・オブ・ザ・キングス』『ジェリー・ロール』のミュージック・ビデオがオンエアされた。アル・ヤンコビックがホストを務める『ビッグ・アル・ショー』での『ビリー』のライヴ演奏は現代でも話題に上る白熱の名演だ。ジョンのギターの凄さはもちろんヴォーカリストとしての力量もあっと驚くもので、カーマイン・アピスのドラムスとトニー・フランクリンのフレットレス・ベースを交えた三つ巴ハード・ロックは全世界で何千万枚売れても不思議のない傑作だった。
だが、彼を取り巻く環境は変わりつつあった。1980年代を席巻したヘヴィ・メタル・ブームは終焉を迎えつつあり、ブロンド長髪のギタリストが速弾きソロを弾きまくるスーパーグループ(しかも歌詞は古代エジプトについてだったり)は“古臭い”と見做された。2作目『ナッシン・バット・トラブル』(1993)発表後、彼は“サイクス”名義で日本市場向けのアルバムを4作発表する傍ら、古巣シン・リジィを復活させ、ツアー活動を行ってきた。2004年にはオールタイム・ベスト選曲の日本公演が行われ、ライヴ・アルバム『バッド・ボーイズ・ライヴ!』(2004)も発表されたが、それが最後の来日となっている。彼は2009年にシン・リジィを脱退、「自分の音楽をやるべき時期が来た」と宣言したが、その約束が果たされることはなかった。
ジョン再評価の気運が高まったのが2011年、ビリー・シーン(Mr. BIG他)とマイク・ポートノイ(ドリーム・シアター他)とのスーパー・プロジェクト、バッド・アップル(非公式の名称)が始動したときだった。ジョンとマイクはアメリカでテレビ出演、インタビューを行い、関係者向けにSoundCloudで『Out Alive』『Believe In Yourself』『Howlin’ & Moanin’』『Red』が公開されたが、そのまま崩壊してしまう。筆者(山﨑)とのインタビューで、マイクはこう語っている。
「ジョンはクールな人間だし、イギリス人ならではのユーモアを持っている。でも彼との音楽的な作業はとてもフラストレーションの溜まるものだった。俺のやり方は常に“ゴー!ゴー!”だけど、ジョンはじっくり腰を落ち着けて、少しずつ曲を書いていくタイプなんだ。一緒にやっていくのは不可能だった」
このプロジェクトでは「12曲のデモをレコーディングした」そうだが、それらが日の目を見ることはなかった。未完成のデモをレコード会社の重役に聴かせることを拒んだジョンが怒鳴り散らし、契約がフイになったとも言われている。
ジョンはソロ・キャリアの再構築を試みるべく、スタジオでレコーディング。アルバムは『Sy-Ops』と名付けられ、2015年には全収録曲を2分半にダイジェストした音源がウェブ公開されている。2016年には“ゴールデン・ロボット・レコーズ”との契約が結ばれ、2019年には正式発表されたものの、同年にはジョン側が「レーベルが契約条件を満たしていない」と契約解消の声明を出していた。
(ただ“ゴールデン・ロボット”は契約解消を認めておらず、公式サイトに“契約アーティスト”として彼の名前を載せ続けている)
それから『Gates Of Hell』『Dawning Of A Brand New Day』『Out Alive』をウェブ公開、『Sy-Ops』(ジャケットまでが公開されたが、このタイトルは「やっぱりやめた」となったらしい)が待たれていたが、いつしか話が立ち消えになっていた。
筆者(山﨑)は3度のインタビューと来日時のバックステージでの雑談でしかジョンと接する機会がなかったが、音楽に対する熱意に満ち溢れ、程良くジョークを飛ばし、シン・リジィのフィル・ライノットに対する敬意と愛情を熱く語る人物だった。よく笑い、ざっくばらんにしゃべり、他アーティストの悪口になってしまうときも陰湿になることがなかった彼ゆえ、後でマイクの「コツコツ少しずつ曲を書いていくタイプ」という発言を聞いて「インタビューだけでは判らないことが多いなあ」と思ったものである。
1997年に行ったインタビューで特に思い出に残っているのは、シン・リジィの『サンダー・アンド・ライトニング』の歌詞を教えてもらったことである。それまで日本盤LP/CDの歌詞カードでは日本で聞き取りをした珍妙なものが載っていたが、オリジナル・ヴァージョンでギターを弾き、自らのライヴで歌っていた彼なら正しい歌詞を知っているに違いない!……と尋ねてみたところ、彼は電話口で懇切丁寧に教えてくれた。1998年2月発売のリイシュー盤CD以降はこのときの歌詞が使われている。
近年では公の場に出ることもなく、ジョンの噂を耳にする機会はめっきり減っていった。筆者は彼と共演してきたマイク・ポートノイやカーマイン・アピスから「メールをしても返事が来ない」と直接聞いていたし、2018年にゲイリー・ムーアへのトリビュート作でジョンと共演したボブ・デイズリーから「連絡がついたら、また一緒にやろうと伝えてくれ」とメールアドレスを渡され、インタビューの可能性について直接メールしてみたが、やはり返事はなかった。
最後に彼にメールを送ったのは2024年10月だった。それから3か月後、彼の訃報が世界を駆け巡ったのだった。
晩年は表だった動きのなかったジョンだが、世界中のファンがいつの日か彼が再び、ステージで金髪を振り乱しながらギターを弾きまくる日が来ると信じていた。
なお“ゴールデン・ロボット・レコーズ”はジョンの没後にウェブサイトを更新、「2025年に4曲入りEPをリリースする」と発表している。我々はジョンの音楽を聴き続けることで、その魂を生かし、次世代へと語り伝えていきたい。
山崎智之〔やまざき・ともゆき〕
1970年、東京生まれの音楽ライター。ベルギー、オランダ、チェコスロバキア(当時)、イギリスで育つ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業後、一般企業勤務を経て、1994年に音楽ライターに。ミュージシャンを中心に1,300以上のインタビューを行い、雑誌や書籍、CDライナーノーツなどで執筆活動を行う。『ロックで学ぶ世界史』『ダークサイド・オブ・ロック』『激重轟音メタル・ディスク・ガイド』『ロック・ムービー・クロニクル』などを総監修・執筆。実用英検第1級、TOEIC 945点取得
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文/ 山崎智之
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