Web音遊人(みゅーじん)

流れる色彩美、内省的な深まり/ダン・タイ・ソン ピアノ・リサイタル

ベトナムのハノイに生まれたダン・タイ・ソンは1980年、ショパン国際ピアノコンクールでアジア出身として初の第1位に輝いた。2021年の同コンクールでは審査員を務め、第1位となったカナダのブルース・シャオユー・リウ(第2位は反田恭平)の師でもある。筆者はかつてパリでダン・タイ・ソンの公演を聴いたことがあるが、秋深まる哀愁のパリにふさわしい洗練されたショパンだったと記憶している。8月28日、ヤマハホールでの「ダン・タイ・ソン ピアノ・リサイタル」はフランス近代音楽とショパンというプログラム。曲の流れの良さに加え、内省的な深まりも感じさせる巨匠の秀演となった。

1曲目のラヴェル『古風なメヌエット』は滑らかに進み行く。不協和音と不安定なリズムを多用した曲ながら、しなやかなタッチと適度のルバートで流れを良くしている。中世・ルネサンス期の教会旋法を取り入れた異形のメヌエットとして、ラヴェルは「古風な」に皮肉を込めたのかもしれないが、彼の演奏はいい意味でクセがなく流麗だ。中間部の穏やかなトリオは、夢の宮殿での優雅なまどろみを思わせる。ペダル操作も秀逸で、低弦のような持続音が曲を古風な色合いに包む。

2曲目のラヴェル『亡き王女のためのパヴァーヌ』は、ゆったりしたテンポの中で様々な色彩が重なり合っては流れていく。美しい旋律を歌わせるだけでなく、王女の肖像を描く過程を聴かせるかのようだ。実に高貴な音の絵ではないか。時間を持つ音楽は絵画の制作工程を描ける、と実感した。

ドビュッシーの『映像 第1集』はまさに印象派動画だ。第1曲『水に映る影』では、水面にきらめく光と影の戯れを硬質な音の粒で描く。音の強弱、緩急の付け方は微細を極める。水面が混濁する様子も明瞭な音質で彩色していく。第2曲『ラモーをたたえて』は音の緩やかな運びが悠久の時を思わせる。第3曲『運動』では、安定感のある低音のリズムに乗って、眩しい光が躍動する。しかし眩しすぎることはなく、曲全体の流線美は保たれる。

趣が変わったのは、2022年に生誕200周年を迎えたフランクの『前奏曲、コラールとフーガ』。オルガン風の効果を上げようとしたのか、強力なタッチで音の大伽藍を構築していく。下降する主題も飲み込まれるほど、交響が広がる。激烈すぎるか。力演には違いないが、敬虔な雰囲気がもう少しあってもよかった。

後半は彼が自家薬籠中とするショパン。ポロネーズとマズルカ、ワルツから選曲し、『3つのエコセーズ』『タランテラ』も含め哀楽異なる曲を次々に弾いた。控えめながらも個性的といえるルバートを駆使し、内省的な深みのある歌を聴かせた。その中から2曲について。まず『ワルツ第19番イ短調(遺作)』。年少者も弾く単純素朴な哀歌だが、小さな物語を研ぎ澄まされた芸術品に仕立てる試みか。巧みなペダル操作で自然な流れを創り出した。

もう1曲はトリの『ポロネーズ第6番変イ長調(英雄ポロネーズ)』。一般に聴きやすい人気曲だが、彼の演奏は固定観念を打ち払う。第1主題は抑制を効かし、独特のルバートをかけながら進む。その分だけ中間部のトリオが激しい印象を増す。16分音符の左手オクターヴ連打は、正義の怒りに駆られた不屈の全力疾走を思わせる。そこに込めたダン・タイ・ソンの感情は凄まじい。彼が思い浮かべるのはかつてのベトナムか、侵略されるウクライナか。ポーランドへの愛国心を示すショパンが乗り移ったような秀演。新鮮な感動があった。

アンコールはドビュッシーの前奏曲集第1巻から『パックの踊り』と同2巻から『奇人ラヴィーヌ将軍』。彼が客席に向かってリクエストを尋ねると、「ショパン」という声が上がった。それでもドビュッシーを弾いたのが印象深い。響きの色彩がデリケートに移り変わり、軽妙な遊び感覚が聴き手を魅了する。ドビュッシーの2曲は巨匠のさらなる進化を確信させた。

 

池上輝彦〔いけがみ・てるひこ〕
日本経済新聞社メディアプロデューサー。早稲田大学卒。証券部・産業部記者を経て欧州総局フランクフルト支局長、文化部編集委員、映像報道部シニア・エディターを歴任。音楽レビュー、映像付き音楽連載記事「ビジュアル音楽堂」などを執筆。専門誌での音楽批評、CDライナーノーツの執筆も手掛ける。
日本経済新聞社記者紹介

photo/ Ayumi Kakamu

本ウェブサイト上に掲載されている文章・画像等の無断転載・無断使用を固く禁じます。

facebook

twitter

特集

坂本龍一さん

今月の音遊人

【プレゼント】今月の音遊人:坂本龍一さん「かつて観たテレビアニメの物語は忘れたけど、主題歌は鮮明に覚えている。音楽の力ってすごいよね」

15859views

音楽ライターの眼

連載30[ジャズ事始め]渡辺貞夫『ジャズ&ボッサ』はA面とB面を別作品に仕立てた戦略的な意見表明だった

1522views

Pacifica

楽器探訪 Anothertake

「自分の音」に向かって没入できる演奏性と表現力/エレキギター「Pacifica」

691views

楽器のあれこれQ&A

ドの音が出ない!?リコーダーを上手に吹くためのアドバイスとお手入れ方法

180447views

ホルンの精鋭、福川伸陽が アコースティックギターの 体験レッスンに挑戦! Web音遊人

おとなの楽器練習記

【動画公開中】ホルンの精鋭、福川伸陽がアコースティックギターの体験レッスンに挑戦!

10811views

楽器博物館の学芸員の仕事 Web音遊人

オトノ仕事人

楽器のデモンストレーション、解説、管理までをこなすマルチプレイヤー/楽器博物館の学芸員の仕事(前編)

11514views

ザ・シンフォニーホール

ホール自慢を聞きましょう

歴史と伝統、風格を受け継ぐクラシック音楽専用ホール/ザ・シンフォニーホール

23917views

東京文化会館

こどもと楽しむMusicナビ

はじめの一歩。大人気の体験型プログラムで子どもと音楽を楽しもう/東京文化会館『ミュージック・ワークショップ』

7433views

小泉文夫記念資料室

楽器博物館探訪

民族音楽学者・小泉文夫の息づかいを感じるコレクション

10041views

われら音遊人

われら音遊人

われら音遊人:人を楽しませたい!それが4人の共通の思い

6488views

山口正介さん Web音遊人

パイドパイパー・ダイアリー

サクソフォン教室の新しいクラスメイト、勝手に募集中!

4523views

太平洋に浮かぶ楽園で、小笠原古謡に恋をする Web音遊人

音楽めぐり紀行

太平洋に浮かぶ楽園で、小笠原古謡に恋をする

9944views

世界各地で活躍するギタリスト朴葵姫がフルートのレッスンを体験!

おとなの楽器練習記

【動画公開中】世界各地で活躍するギタリスト朴葵姫がフルートのレッスンを体験!

7639views

浜松市楽器博物館

楽器博物館探訪

世界中の珍しい楽器が一堂に集まった「浜松市楽器博物館」

30599views

音楽ライターの眼

赤裸々に自己の内面を綴った『エフゲニー・キーシン自伝』

13385views

オトノ仕事人

子ども向けコンサートを企画し、音楽が好きな子どもを増やす/コンサートプロデューサーの仕事

8290views

われら音遊人

われら音遊人:オリジナルは30曲以上 大人に向けて奏でるフォークロックバンド

4321views

Venova(ヴェノーヴァ)

楽器探訪 Anothertake

スタイリッシュで斬新なデザイン。思わず吹いてみたくなるカジュアル管楽器「Venova(ヴェノーヴァ)」の誕生

10307views

人が集まり発信する交流の場として、地域活性化の原動力に/いわき芸術文化交流館アリオス

ホール自慢を聞きましょう

おでかけ?たんけん?ホール独自のプランで人々の厚い信頼を獲得/いわき芸術文化交流館アリオス

7594views

山口正介さん Web音遊人

パイドパイパー・ダイアリー

サクソフォン教室の新しいクラスメイト、勝手に募集中!

4523views

楽器のあれこれQ&A

エレクトーンについて、知っておきたいことや気をつけたいこと

25585views

ズーラシアン・フィル・ハーモニー

こどもと楽しむMusicナビ

スーパープレイヤーの動物たちが繰り広げるステージに親子で夢中!/ズーラシアンブラス

13734views

ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブにサルサ!キューバ音楽に会いに行く旅 - Web音遊人

音楽めぐり紀行

ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブにサルサ!キューバ音楽に会いに行く旅

25128views