Web音遊人(みゅーじん)

【クラシック名曲 ポップにシン・発見】(Phase52)フォースター「ハワーズ・エンド」の音楽、20世紀初頭の英国コンサート、小説に聴くベートーヴェン、ブラームス、エルガー

【クラシック名曲 ポップにシン・発見】(Phase52)フォースター「ハワーズ・エンド」の音楽、20世紀初頭の英国コンサート、小説に聴くベートーヴェン、ブラームス、エルガー

英国の作家E・M・フォースターの長編小説「ハワーズ・エンド」は20世紀初頭のロンドンでのクラシック・コンサートを描いている。曲目はベートーヴェン「交響曲第5番」、ブラームス「4つの厳粛な歌」、エルガー「威風堂々」など。富裕なシュレーゲル姉妹が、貧しい英国人青年レナード・バストと出会う場面だ。クラシック音楽をめぐる人間模様からはビートルズ以前の階級社会・英国の実態が見える。

地味な小説でも高まる存在感

20世紀前半の英国文学の中でフォースターはジェイムズ・ジョイスやヴァージニア・ウルフのモダニズムに比べて地味で保守的な作風と見られがちだ。代表作「ハワーズ・エンド」もジェイン・オースティンの「自負と偏見」やトマス・ハーディの「日陰者ジュード」を思わせるリアリズム小説。しかしフォースターは最近見直され、存在感を高めている。富裕層と下層中流の壁を越えて結び合おうとする人々を描く「ハワーズ・エンド」が現代人の経済格差の問題意識に合致するのだろう。

「ハワーズ・エンド」は吉田健一訳が定番だったが、2025年1月に光文社古典新訳文庫から読みやすい浦野郁訳が出た。「結び合わせることさえできれば……」(浦野訳)というエピグラフは、現代人にどれだけ響くだろうか。人々を階層に分けておいて「結び合わせたい」と言うのは偽善的とも捉えられかねない個人が家庭の経済力を理由に能力を発揮できなければ、進学や人材育成、公正な自由主義経済に支障を来す。

教養を高めたい青年の真摯な姿勢

階級社会の英国では「結び合わせる」ことが願いだったとはいえ、フォースターの描き方には不快な「上から目線」もある。例えば、シュレーゲル姉妹らが夕食会で自分の資産をどう処分するか討論する章。教養を身に着けようと努力している貧しい事務員「バストさん」を題材にし、衣料や金銭を施そうと意見を交わす。資産がないというだけで人を侮りすぎで、時代の限界を感じる。そのレナード・バスト青年が通うのがクラシック・コンサートだ。

シュレーゲル姉妹と弟がレナードと出会ったのはロンドンのクイーンズホールでの安価なコンサート。曲目はベートーヴェンの「交響曲第5番ハ短調Op.67《運命》」。姉妹らの亡父は英国に移住したドイツ人だが、英国を訪れたドイツ人のいとこが「本物のドイツ人」としてのベートーヴェンに心酔するなど、当時のベートーヴェンとドイツへの人々の崇拝ぶりをうかがわせる。


Beethoven -5th Symphony, 2nd movement: Andante Con Moto

各人の音楽の聴き方についての説明も興味深い。妹は英雄や難破船を思い浮かべるなど、音楽に意味を与えて文学作品にしてしまう。姉は音楽を音楽として聴き、対位法に精通する弟は総譜を広げて分析的に聴く。姉はワーグナーを批判し、姉妹の叔母はドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」を薄っぺらな音楽だと言って嫌う。音楽談義の中で、レナードは自分にもっと教養があればと思いつつ、恐れをなして退散する。

レナードはアパートに帰ると、音楽や文学に無関心の婚約者を前にピアノでグリーグの小品を弾く。コンサートで出会った人たちを思い出しつつ、芸術や教養への憧れがにじみ出る場面だ。芸術音楽が宮廷や貴族、富裕層ではなく、教養を身に着けたい多くの人々によって支えられていく時代の到来をこの小説は捉える。単なる娯楽ではなく、教養を育んで人間的に成長したい個人の真摯な姿勢、教養主義がクラシック音楽を広める推進力になる。

経済的理由で聴けなくなるか

「ハワーズ・エンド」のコンサートにはほかにも興味深い点がある。メンデルスゾーン作品(曲名なし)の後、ベートーヴェン「交響曲第5番」。その後にピアノとバリトン独唱によるブラームス「4つの厳粛な歌Op.121」が続く。さらにエルガー「威風堂々」。オーケストラ作品の合間にピアノ伴奏の歌曲というのは今日では珍しい。ブラームスやエルガーは当時の「現代音楽」であり、クラシック音楽鑑賞の同時代性が今より強かったことを示す。

シュレーゲル家の姉やいとこはエルガーの「威風堂々」のような英国音楽を嫌ったり見下したりする。ドイツを中心とする芸術音楽の価値を知っているという自負心だろう。だがエルガーやビートルズの音楽的価値を追求するのも立派な教養主義や鑑賞芸術である。クラシック・コンサートにはレナード青年が欠かせない。経済的理由で青年がクラシック音楽を聴けなくなる状況はあってはならない。

「クラシック名曲 ポップにシン・発見」全編 >

池上輝彦〔いけがみ・てるひこ〕
音楽ジャーナリスト。日本経済新聞社シニアメディアプロデューサー兼日経広告研究所研究員。早稲田大学商学部卒。証券部・産業部記者を経て欧州総局フランクフルト支局長、文化部編集委員、映像報道部シニア・エディターを歴任。音楽レビュー、映像付き音楽連載記事「ビジュアル音楽堂」などを執筆。クラシック音楽専門誌での批評、CDライナーノーツ、公演プログラムノートの執筆も手掛ける。日経文化事業情報サイト「art NIKKEI」にて「聴きたくなる音楽いい話」を連載中。
日本経済新聞社記者紹介

特集

今月の音遊人

今月の音遊人:小曽根真さん「音楽は世界共通語。生きる喜びを人とシェアできるのが音楽の素晴らしさ」

23098views

音楽ライターの眼

生誕250年のメモリアルイヤーに、ベートーヴェンの《第9》を改めて聴き直したい

3488views

変えるべきもの、変えざるべきものを見極める

楽器探訪 Anothertake

変えるべきもの、変えざるべきものを見極める

15698views

ヤマハ製アコースティックギター

楽器のあれこれQ&A

目的別に選ぶ、ヤマハ製アコースティックギター

23444views

おとなの楽器練習記

おとなの楽器練習記:注目の若手サクソフォン奏者 住谷美帆がバイオリンに挑戦!

10703views

ホールのクラシック公演を企画して地域の文化に貢献する/音楽学芸員の仕事

オトノ仕事人

アーティストとお客様とをマッチングさせ、コンサートという形で幸福な時間を演出する/音楽学芸員の仕事

13887views

久留米シティプラザ - Web音遊人

ホール自慢を聞きましょう

世界的なマエストロが音響を絶賛!久留米の新たな文化発信施設/久留米シティプラザ ザ・グランドホール

21804views

日生劇場ファミリーフェスティヴァル

こどもと楽しむMusicナビ

夏休みは、ダンス×人形劇やミュージカルなど心躍る舞台にドキドキ、ワクワクしよう!/日生劇場ファミリーフェスティヴァル2022

4494views

小泉文夫記念資料室

楽器博物館探訪

世界の民族楽器を触って鳴らせる「小泉文夫記念資料室」

26560views

われら音遊人:「非日常」の充実感が 活動の原動力!

われら音遊人

われら音遊人:「非日常」の充実感が活動の原動力!

9014views

山口正介さん

パイドパイパー・ダイアリー

「自転車を漕ぐように」。これが長時間の演奏に耐える秘訣らしい

6951views

太平洋に浮かぶ楽園で、小笠原古謡に恋をする Web音遊人

音楽めぐり紀行

太平洋に浮かぶ楽園で、小笠原古謡に恋をする

11855views

おとなの楽器練習記

おとなの楽器練習記:若き天才ドラマー川口千里がエレキギターに挑戦!

13672views

小泉文夫記念資料室

楽器博物館探訪

世界の民族楽器を触って鳴らせる「小泉文夫記念資料室」

26560views

音楽ライターの眼

ブルース・ホーンズビーが“スパイク・リー三部作”で新たなる飛躍へ

3312views

音楽市場を広げたい、そのために今すべきこと/ジャズクラブのブッキング・制作の仕事(後編)

オトノ仕事人

音楽市場を広げたい、そのために今すべきこと/ジャズクラブのブッキング・制作の仕事(後編)

8243views

われら音遊人

われら音遊人:アンサンブルを大切に奏でる皆が歌って踊れるハードロック!

6061views

ギター文化館

楽器探訪 Anothertake

歴史的ギターの音を生で聴けるコンサートも開催!

8493views

東広島芸術文化ホール くらら - Web音遊人

ホール自慢を聞きましょう

繊細なピアニシモも隅々まで響く至福の音響空間/東広島芸術文化ホール くらら

15351views

パイドパイパー・ダイアリー Web音遊人

パイドパイパー・ダイアリー

あれから40年、おかげさまで「音」をはずさなくなりました

5444views

楽器のあれこれQ&A

初心者必見!トランペットをうまく鳴らすコツと練習方法

137222views

こどもと楽しむMusicナビ

サービス精神いっぱいの手作りフェスティバル/日本フィル 春休みオーケストラ探検「みる・きく・さわる オーケストラ!」

11247views

ポロネーズに始まりマズルカに終わる、ショパンの誇り高き精神をめぐるポーランドの旅 - Web音遊人

音楽めぐり紀行

ポロネーズに始まりマズルカに終わる、ショパンの誇り高き精神をめぐるポーランドの旅

35085views