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【クラシック名曲 ポップにシン・発見】(Phase57)ドビュッシー「前奏曲集」、繰り返し聴きたい理由、自律的な音響が織り成す映像、見飽きない風景

【クラシック名曲 ポップにシン・発見】(Phase57)ドビュッシー「前奏曲集」、繰り返し聴きたい理由、自律的な音響が織り成す映像、見飽きない風景

フランスの作曲家クロード・ドビュッシー(1862~1918年)の「前奏曲集第1、第2集」は繰り返し聴きたくなるピアノ曲集である。全24曲には人気の「(…亜麻色の髪の乙女)」もあるが、美旋律だけが魅力ではない。長・短調の境を曖昧にし、全音音階や五音音階、教会旋法、平行和音、9、11、13度の拡張和音を含む斬新な響き。自律的な音響が織り成す映像は、自然の音を聴くような心地良さだ。野を渡る風、夕暮れの大気など美しい風景と同様に飽きない。

花房晴美の明晰なアプローチ

2025年8月22日、東京の武蔵野市民文化会館小ホールで開かれた「花房晴美ピアノ・リサイタル」。そこで久しぶりにドビュッシーの「前奏曲集第1、第2集」全24曲をライブで聴いた。花房晴美はフランス音楽の第一人者であり、長年続くフランス室内楽シリーズ公演には定評がある。ドビュッシーの「前奏曲集」もこれまで複数回公演しており、レコーディングもある。今回のリサイタルでは、神秘的で幻想的、曖昧模糊としたドビュッシーの世界を、非常に明晰な音響の重ね方で描くという王道の演奏を聴かせた。

ドビュッシーの大家といわれるピアニストのパフォーマンスは、演奏家というよりも音響技師に見えることがある。この日の花房もグランドピアノという大型機械と格闘するエンジニアといった姿だった。そもそも「前奏曲集」は鍵盤で美しい旋律を弾けばいいといった音楽ではない。ペダルの微妙な踏み加減、幅広い鍵盤を使うアルペジオや複調的な和音など、西洋音楽の和声規律にとらわれない多層の音響を次々に鳴らしていく作業が求められる。

倍音のレベルまで音響管理

「第1集は音楽的で、第2集は技巧的だとよく言われますが、第1集にもけっこう難しいところがあって、(高度なテクニックを要するのは)どちらも変わりません」と花房は語る。「例えば、ソフトペダルとはどのくらい踏むべきペダルなのか。表現が少しずつ違っており、楽譜を詳しく見れば見るほど新たな発見があり、ますますおもしろくなってきます」。濃淡、階調が刻々と変わり、容易には汲み尽くせない音響が譜面に詰め込まれている。


Debussy: Préludes / Book 1, L. 117: I. Danseuses de Delphes

冒頭の第1集第1曲「(…デルフィの舞姫たち)」から花房の周到な音響管理が冴え渡る。倍音のレベルにまで気を配って一音一音を響かせる。サラバンド風のゆったりとしたリズムのうちに荘重で神秘的な空間が浮かび上がる。フワッとした雰囲気を生み出すには、几帳面で精巧な音響管理技術が必要になるのだ。「明晰ならざるものフランス語にあらず(Ce qui n’est pas clair n’est pas français.)」という18世紀の作家リヴァロルの言葉の通り、明晰さはフランス文化の根底にある。第1集第10曲「(…沈める寺)」や第2集第1曲「(…霧)」でも、花房の明晰なアプローチが、靄がかかり模糊とした幻想風景を実現させていた。

ビル・エヴァンスも含む網羅性

ドビュッシーのピアノ曲集には「2つのアラベスク」、人気の「月の光」を含む「ベルガマスク組曲」、ガムラン音楽に影響された「塔(パゴダ)」を含む「版画」、「映像第1、第2集」、「子供の領分」、抽象度が高い晩年の「12の練習曲」など多くの傑作がある。しかしドビュッシーのあらゆる音楽性を網羅しているのは「前奏曲集」だ。

第1集の12曲は1909~10年、第2集の12曲は1910~13年に作曲された。24曲すべてが異なる個性を持ち、同世代や未来の音楽を暗示する。「前奏曲集」はサティの諧謔性やポップス感覚、ラヴェルの異国情緒、プーランクの洗練、メシアンの前衛性、それにジャズのビル・エヴァンスの繊細で美しい響きも含んでいる。


Debussy: Préludes – Book 2, L.123: 5. Bruyères (Live)

例えば、美旋律を持つ第1集第8曲「(…亜麻色の髪の乙女)」、五音音階風でアラベスク(唐草模様)的な第2集第5曲「(…ヒースの茂る荒地)」、複合旋法を用いた第2集第7曲「(…月の光がふりそそぐテラス)」などを聴けば、ビル・エヴァンスの洗練された心地良いサウンドをドビュッシーが半世紀前に創造していたと分かる。ビル・エヴァンスの「ポートレイト・イン・ジャズ」や「ワルツ・フォー・デビイ」といった名盤を聴くと、ドビュッシーの「前奏曲集」や「ベルガマスク組曲」が思い浮かぶはずだ。

複調が描く霧に霞んだ風景

「前奏曲集」の作曲当時、ドビュッシーはロシア出身の新進作曲家ストラヴィンスキーを高く評価していた。「前奏曲集第2集」には、1912年にストラヴィンスキーのバレエ音楽「ペトルーシュカ」の楽譜を見てインスピレーションを得た曲があるだろう。第1曲「(…霧)」。ペトルーシュカ和音と呼ばれる、複数の調性が同時進行する復調が用いられているのだ。


霧(前奏曲集第2巻 第1曲)

左手がハ長調(C)やト長調(G)の和音、右手が変ハ長調(C♭、=ロ長調)や嬰へ長調(F♯)のアルペジオや旋律で同時進行したりする。この遠隔調による複調が霧に霞んだ風景を描き出す。そこから「C→Dm→Em→Dm」という順次進行の和音から成る「旋律」がわずかに明瞭に浮かび上がる。

不確定で流動的なリズム

ストラヴィンスキーといえば変拍子も特徴だ。「ペトルーシュカ」のほか1913年完成のバレエ音楽「春の祭典」では、原始的で大胆なビート系の変拍子を多用している。ドビュッシーはもともとストラヴィンスキーに通じる変拍子の趣向を持ち合わせていた。しかもドビュッシーはタイやスラーを用いてシンコペーションを駆使し、変拍子や多拍子、不確定で流動的なリズムを現出させる。

第1集第4曲「(…音と香りは夕暮れの大気に漂う)」では4分の3拍子と4分の5拍子が入り交じり、夕暮れの階調を表すような流動的なリズムを生み出す。ドビュッシーは拍(ビート)を刻む従来のリズム体系自体を繊細にさりげなく揺るがしてしまうのである。

曲の末尾に控えめに置く題名

ところで筆者は「前奏曲集」の各曲の題名をすべて( )に入れて「…」から始めている。これはドビュッシーがそのような表記法で題名を曲の末尾に控えめに置いているからだ。例えば、第1集第3曲「(…野を渡る風)」ならば「(… Le vent dans la plaine)」、第1集第7曲「(…西風の見たもの)」ならば「(… Ce qu’a vu le vent d’ouest)」といった具合だ。

ドビュッシーは題名から演奏者や聴き手が先入観を持つことを避け、飽くまでも楽譜から各人がそれぞれの音響空間を思い描くことを望んだ。もっとも、花房は「題名通りの世界を音でよく描いている」と指摘する。となると、ドビュッシーはリストやワーグナーの標題音楽とブラームスの絶対音楽というロマン派時代の二項対立の構図を超越したことにもなる。

最後に花火とフランス国歌

貧しい家庭に育ったドビュッシーは、10歳でパリ国立高等音楽院に入学。その後、自らの音楽の才能を通じて富裕層の人々と出会っていく。彼の音楽に漂う高貴さや気品は、自分が生まれ育った環境とは別世界の上流社会への憧れの反映だ。

1905年には上流階級出身のエンマと駆け落ちの末に再婚するが、生活は楽ではなかった。「前奏曲集」の楽譜を売って稼ぐためにも、第1集第5曲「(…アナカプリの丘)」にカンツォーネ、第1集第12曲「(…ミンストレル)」と第2集第6曲「(…風変わりなラヴィーヌ将軍)」にケークウォークのリズムを入れるなど、大衆に受けそうなポップスの要素を盛り込んだ。

最後の第2集第12曲「(…花火)」では、7月14日のフランス国民祭(ル・カトルズ・ジュイェ、パリ祭)での花火の様子を高速のアルペジオで描く。そして終結部では、フランス国歌「ラ・マルセイエーズ」のリフレイン部分「Aux armes, citoyens(武器を取れ、市民たちよ)」を静かに鳴らす。貧困層の少年を大作曲家に育てた祖国フランスに栄光あれ、という作曲家自身の感謝の気持ちを照れながら曲に忍ばせているかのようだ。

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池上輝彦〔いけがみ・てるひこ〕
音楽ライター。日本経済新聞社シニアメディアプロデューサー兼日経広告研究所研究員。早稲田大学商学部卒。証券部・産業部記者を経て欧州総局フランクフルト支局長、文化部編集委員、映像報道部シニア・エディターを歴任。音楽レビュー、映像付き音楽連載記事「ビジュアル音楽堂」などを執筆。クラシック音楽専門誌での批評、CDライナーノーツ、公演プログラムノートの執筆も手掛ける。日経文化事業情報サイト「art NIKKEI」にて「聴きたくなる音楽いい話」を連載中。
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