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【クラシック名曲 ポップにシン・発見】(Phase61)信時潔「海道東征」、歌が開いた近代日本音楽、叙事詩の清冽な浪漫、言祝ぎの音響美

【クラシック名曲 ポップにシン・発見】(Phase61)信時潔「海道東征」、歌が開いた近代日本音楽、叙事詩の清冽な浪漫、言祝ぎの音響美

信時潔(1887~1965年)は日本の音楽史上、屈指の作曲家である。プロテスタント教会の牧師の家に生まれ、讃美歌を聴いて育ち、バッハの音楽を敬愛し研究した。交声曲(カンタータ)「海道東征」(1940年)は全8章から成る管弦楽伴奏付き声楽の大作。「古事記」「日本書紀」の「神武東征」を扱った北原白秋の晩年の叙事詩を歌詞にしている。清冽な浪漫と言祝ぎの音響美を持つ近代日本音楽の最高傑作はもっと聴かれていい。

笙のような持続音と五音音階

「海道東征」の第一章「高千穂」を聴くと、その清楚で瑞々しい響きに爽やかな朝のような感動を覚える。序奏は雅楽の笙の響きを思わせるヴァイオリンのニの持続音から始まる。フルートがイ短調の五音音階の構成音を緩やかに下行する中で、弦はイの持続音を強めていく。持続音と旋律から成るバイフォニーは、西洋の作曲家たちが憧れた東洋風の和声だ。

序奏に続いて「神坐(ま)しき、蒼空(あをぞら)と共に高く、み身坐しき、皇祖(すめらみおや)」と男声(バス)の独唱が始まる。冒頭の「神坐しき、蒼空と」は長2度の短い音程で厳かに歌われ、「共に高く」では1オクターブ高いハ音、「み身坐しき」では同じくニ音にまで上行する。ニ音で始まりニ音で終わる五音音階の旋律。これは国歌「君が代」や雅楽の神楽歌を思わせる。その後に弦が美しく澄み切ったハ長調の五音音階の旋律を奏でる。この旋律で合唱が「はるかなり我が中空(なかぞら)」と歌い出す。


交声曲「海道東征」 第1章 高千穂

第一章「高千穂」では独唱と合唱が交互に繰り返される。2回繰り返すまで主旋律は五音音階。3回目で初めて独唱(テノール)の旋律にイ、ハ、ニ、ホ、ト音以外の音、ロ音が入り、「日向(ひむか)すでに」と歌う。続く合唱はヘ長調に転調し、「遥かなり我が高千穂」と歌って高揚する。その直後、陰りのある曲調で「かぎりなし千重(ちへ)の波折(なをり)」と合唱する場面が秀逸である。ここではニ短調の和声的短音階を使っていて、嬰ハ音が印象深く響くのだ。4回目は最初の調性に戻り、独唱部分が男声合唱に変わり、ハ長調の合唱で輝かしく結ぶ。

「第九」に匹敵する国民的音楽か

第一章「高千穂」を聴いただけでも、「海道東征」が近代日本音楽を代表する大作であることを実感する。日本ではベートーヴェンの「交響曲第9番(第九)」が年末や大イベントで演奏される。日本人はシラーのドイツ語詩「歓喜に寄す(An die Freude)」も歌えるほど高い教養を持つ民族だと世界から称賛されるのもいい。だが「第九」のほかに国民的クラシック音楽はないものか。信時の「海道東征」は「第九」に匹敵しないか。「記紀」を扱った日本語の格調高い文語詩を歌詞にし、日本的旋律や和声などを持つ「海道東征」は国民的クラシック音楽にふさわしいと思われる。

ところが「海道東征」は第二次世界大戦後、長らく封印されてきた。神武天皇の即位から2600年にあたる1940年、信時はこの作品を「皇紀二千六百年」の奉祝曲として完成させた。ほかにも国内外の著名な作曲家たちが奉祝曲を書いた。ドイツのリヒャルト・シュトラウスは「大管弦楽のための日本の皇紀二千六百年に寄せる祝典曲Op.84」、フランスのイベールは「祝典序曲」を作曲し、東京の歌舞伎座で紀元二千六百年奉祝交響楽団が初演した。日本人による主な奉祝曲には山田耕筰の歌劇「夜明け(のちに『黒船』に改題)」、伊福部昭「交響舞曲《越天楽》」、橋本國彦「交響曲第1番ニ調」などがある。

中でも「海道東征」は1940年11月26日、東京の日比谷公会堂で木下保指揮の東京音楽学校(現東京藝術大学音楽学部)管弦楽部らが全曲初演して以降、絶大な人気を博し、各地で再演が相次いだ。日中戦争から日米開戦へと続く時代。戦時下、盛んに再演され、1943年11月15日には出陣学徒壮行演奏会(東京・神田共立講堂)でも上演された(第一、二、七、八章のみ)。そして戦後、軍国主義を煽った音楽として封印の憂き目に遭ってきたのだ。

「記紀」に基づく白秋の叙事詩

歌詞は北原白秋の晩年の詩集「新頌(しんしょう)」(1940年)に収められた連作長詩「海道東征」である。この詩は、入手しやすい岩波文庫や新潮文庫の「北原白秋詩集」には載っていない。「近代浪漫派文庫20北原白秋 吉井勇」(新学社)には全8章のうち第一章「高千穂」、第二章「大和思慕」、第三章「御船出(みふなで)」のみが収録されている。全篇を読むには「信時潔:交声曲『海道東征』/『海ゆかば』北原幸男(指揮)東京交響楽団他」(キングレコード)など数少ないCDのブックレット、もしくはインターネットの青空文庫を開くほかなさそうだ。

日本の古典文学の伝統から新たな詩と音楽が生まれる

日本の古典文学の伝統から新たな詩と音楽が生まれる

南蛮趣味の唯美的象徴詩が並ぶ第一詩集「邪宗門」から始まった白秋の詩業だが、童謡や新民謡の創作にみられるように、もともと日本の抒情を歌うロマン派詩人の性格はあった。それが1929年刊の詩集「海豹(かいひょう)と雲」、特にその冒頭の連作詩「古代新頌」から日本的な古色を帯び、さびた趣の蒼古調になる。そして1940年の詩集「新頌」では蒼古調を深め、「海道東征」「建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)」など「記紀」を題材にした叙事詩に至った。

晩年の白秋は戦争詩も書き、1942年に57歳で死去した。国民的詩聖が戦時にさらけ出したロマン主義的な情念は戦後批判されることになる。戦後も生きたとしたら、カズオ・イシグロの小説に登場する旧世代の人物みたいだ。それでも「海道東征」の詩の価値は普遍なのではないか。神武天皇(神日本磐余彦天皇、かむやまといはれびこのすめらみこと)の東征を描く叙事詩ながらも、戦闘の場面は第七章「白肩の津上陸」のみ。その音楽も総演奏時間約50分のうち4分弱と短い。「記紀」ではその後も熊野から大和に至るまで戦闘の場面があるが、白秋の詩では描かれず、第八章「天業恢弘(てんぎょうかいこう)」で「いざ領(し)らせ大和ここに」「雄たけびぞ、彌榮(いやさか)を我等」と歌って輝かしく結ぶ。

戦争と政治に翻弄された作品

詩も音楽も戦争と政治に翻弄されてきたことが分かった。しかし今、偏見を排して「海道東征」の音楽に耳を傾けてみてはどうか。神々しくも素朴で民衆性があり、清澄で平和な音楽は、とても戦争を煽っているようには聴こえない。むしろ「海道東征」はスメタナの連作交響詩「我が祖国」、シベリウスの交響詩「フィンランディア」「クレルヴォ」、エルガーの行進曲集「威風堂々」などと並び、19世紀末から20世紀前半にかけての民族色の強い国民楽派の傑作リストに名を連ねるべき作品と思える。

続きを聴こう。第二章「大和思慕」ト長調は、女声の独唱と重唱による歌謡風の楽章。詩には、神武東征とは時代が異なる日本武尊(やまとたけるのみこと)の辞世の詩「大和は國のまほろば」が引用される。最も短い楽章だけに、さりげなく美しい旋律が愛おしく感じられる。


交声曲「海道東征」 第3章 御船出

第三章「御船出」は厳かなイ短調の序奏から始まり、合唱がイ長調で明るく「日はのぼる」と歌い出す。凛々しく流れのいい合唱は、近代日本が育んできた唱歌の結晶だ。和声が透き通っていて、天真爛漫ですがすがしい。第三章の淀みなく流麗な曲調で想起されるのはメンデルスゾーンのオラトリオ「パウロ」「エリア」や声楽付きの「交響曲第2番変ロ長調《讃歌》」だ。ユダヤ教からキリスト教プロテスタントに改宗し、バッハの音楽に傾倒したメンデルスゾーン。信時とどこか似ていないか。信時の音楽の瑞々しい魅力は、時代を超えて初期ロマン派のメンデルスゾーンと通じるところがある。

清楚な気品を持つ20世紀音楽

第四章「御船謡(みふなうた)」はピアノ伴奏による男声(バリトン)の独唱から始まる。その後、木管群が祭囃子を吹き鳴らし、「ヤァハレ」「ヤ」などの掛け声も入る民謡風の独唱と合唱で盛り上がる。第五章「速吸(はやすい)と菟狭(うさ)」では童声が入り、都節(陰旋法)によるわらべうたを合唱する。童謡と民謡の性格を並列し、民族色を強める。第六章「海道回顧」は大海原を思わせる雄大な歌が独唱や合唱で繰り広げられる。そして第七章「白肩の津上陸」ロ長調では、東征軍と長髄彦(ながすねびこ)の軍勢との戦いが描かれる。ただ、東征軍の敗戦は白秋の詩では語られず、ニ短調へと沈鬱に転調する信時の音楽がそれを物語る。

最後の第八章「天業恢弘」は第一章の音楽が回帰し、調性も同じイ短調とハ長調。途中の行軍や戦闘は省かれ、白肩の津での敗戦から一転して神武天皇が大和で即位し、その偉業を讃えて全曲を閉じる。締めの響きは、何の衒いもないハ長調の主和音だ。しかし最後のハ長調の和音へと向かって緩やかに盛り上がっていく声楽と管弦楽とピアノの和の響きは非常に感動的だ。この清澄な感動に比肩するのはマーラーの「交響曲第2番ハ短調《復活》」など古今東西に数えるほどしかないだろう。

信時はドイツに留学し、シェーンベルクの十二音技法をはじめ20世紀前半の現代音楽の作曲法にも知悉していた。それでも古典派やロマン派の伝統形式と和声法を貫いた。そもそも当時の前衛手法に飛びつく必要もなかった。日本には世界に知られていない音楽素材が数多くあったからだ。西洋音楽と日本古来の音楽が結びつき、清楚な気品を持つ奇跡の20世紀音楽が生まれた。日本音楽は今、現代音楽の行き詰まりを打破する可能性の一つとして注目されている。2025年は信時潔没後60周年。近代日本を代表する信時の音楽を未来に伝えていきたい。

「クラシック名曲 ポップにシン・発見」全編 >

池上輝彦〔いけがみ・てるひこ〕
音楽ライター。日本経済新聞社シニアメディアプロデューサー兼日経広告研究所研究員。早稲田大学商学部卒。証券部・産業部記者を経て欧州総局フランクフルト支局長、文化部編集委員、映像報道部シニア・エディターを歴任。音楽レビュー、映像付き音楽連載記事「ビジュアル音楽堂」などを執筆。クラシック音楽専門誌での批評、CDライナーノーツ、公演プログラムノートの執筆も手掛ける。日経文化事業情報サイト「art NIKKEI」にて「聴きたくなる音楽いい話」を連載中。
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