今月の音遊人
今月の音遊人:渡辺真知子さん「幼稚園のころ、歌詞の意味もわからず涙を流しながら歌っていたのを覚えています」
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特別な思い出のつまったホールに立つと、演奏者の気持ちは自ずと高まるようだ。
この日の小川典子は、1曲目のモーツァルト「ピアノ・ソナタ第3番」から、実に伸びやかに演奏。左右の手が楽しげに対話したり歌ったりしながら、一気に進行していく。後半になるにつれ、よりパワーがみなぎって、第3楽章では装飾音やトリルの華やいだ音もエネルギッシュに響く……。
イギリスと日本を拠点に国際的な活躍を続ける小川にとって、ヤマハホールは、桐朋学園の「子供のための音楽教室」に通っていた小学時代から「憧れの場所」だったそうだ。成績優秀者はここで演奏できるからで、念願かなった小学3年生から高校時代まで、実技試験やコンクールなどでも演奏を重ねた「演奏経験の原点」だという。そんな興味深いメッセージが、プログラムにサイン入りで書かれていた。旧ホールでの思い出だが、2010年のリニューアルオープン以来初のリサイタルとあって、当時、ホールで演奏したピアノ曲を選んでの登場。そして、まるで母校での凱旋パフォーマンスのように、屈託のない晴れやかな演奏が終始続くのだった。
2曲目のモーツァルト「ピアノ・ソナタ第11番 トルコ行進曲付き」も、ピアノを習う人にはおなじみ、発表会の定番である。この世の春を彷彿するきらきらとした美しい響きに、時折愁いが見え隠れしながら展開していく。第2楽章では右手がよく歌い、生きる歓びが伝わってくる心地がした。抑揚を大きくつけるも自在なコントロールでムラがなく、締めの「トルコ行進曲」は、もはや前進あるのみ。快進撃が実に痛快であった。
休憩を挟んで、後半もダイナミックな演奏は変わらず、なお一層エネルギッシュに。
リストの「ラ・カンパネラ」では、右手のオクターブ奏法で鐘の音を表現するが、鍵盤の高音域で実に高らかに鐘が鳴り続け、鈴に似た響きまで醸すほどの圧倒的なサウンド。
高校1年のコンクールでこの曲を演奏したとき、弦がなんと4本も切れた武勇伝の持ち主であることに、すんなり納得だ!トップバッターで、演奏開始直後にメンテナンス休憩となったそうだ。しかし、幼小から音量が豊かだったわけではなく「典子ちゃんのピアノには弱音器がついてるのかしら」と先生に言われたほどだったと聞くから、工夫して「よく鳴る術」を身につけた末の賜物である。十指それぞれがキーの真っ芯を捉え、快音を響かせる。ジャストミートでホームランをブッ放す大リーガーに通じるものを感じる。決して、力任せではない。
そんなわけで、続くブラームスの「6つの小品より 第2番 間奏曲」も、締めのシューマン「幻想曲ハ長調」も繊細な色彩に終始するような演奏ではなく、美しくロマンチックな表現を生かしながらも、闊達なピアニシズム。特に、「幻想曲ハ長調」は聴き応えがあった。ベートーヴェンへのオマージュに、後に妻となるピアニストのクララ・ヴィークへの熱い思いを溶かし込んだ曲だ。許されぬ愛、絶望の淵に立たされても、やがて日の目を見て、晴れ晴れと勝利宣言。そして、まるで声量豊かなオペラ歌手のアリアを聞いているかのような、スケール感のある演奏に包まれてフィナーレを迎えたのだった。
アンコール曲はサティの「ジュ・トゥ・ヴ」。ロマンチックな余韻に浸りながらサイン会を待つファンの前に、颯爽と現れた小川はとても満足気な表情。舞台裏では「今日は弦が切れなかったわ!」と笑顔で話していたそうだ。さすが、ベテランの貫禄だ。
原納暢子〔はらのう・のぶこ〕
音楽ジャーナリスト・評論家。奈良女子大学卒業後、新聞社の音楽記者、放送記者をふりだしに「人の心が豊かになる音楽情報」や「文化の底上げにつながる評論」を企画取材、執筆編集し、新聞、雑誌、Web、放送などで発信。近年は演奏会やレクチャーコンサート、音楽旅行のプロデュースも。書籍『200DVD 映像で聴くクラシック』『200CD クラシック音楽の聴き方上手』、佐藤しのぶアートグラビア「OPERA ALBUM」ほか。
Lucie 原納暢子