Web音遊人(みゅーじん)

アレクサンドル・タロー ピアノ・リサイタル

その夜、《ゴルトベルク変奏曲》はフランス語で”演じられた”/アレクサンドル・タロー ピアノ・リサイタル

フランスのピアニスト、アレクサンドル・タローのリサイタルを聴いた。プログラムはバッハの《ゴルトベルク変奏曲》。鍵盤楽器奏者の実力を知るのにもってこいの演目だ。新旧さまざまなスタイル、手の交差などの多彩な技術、3変奏ずつ分節できる秩序立った構造。たくさんの仕掛けが作品を彩る。この曲は奏者に多様な解釈をゆるす一方、演奏技術の点ではかなりの熟練を要求する。演奏者の「頭」と「腕」をはかるのに、これほどふさわしい作品はない。

《ゴルトベルク》の実際のタイトルは「2段鍵盤のチェンバロのためのアリアとさまざまな変奏曲からなるクラヴィーア練習曲集」。チェンバロを前提とするこの曲を、現代のピアノで演奏するには少し工夫がいる。チェンバロは機械的に音色を変えることができる。パートを弾き分けるのに、この音色変換装置は心強い味方だ。30ある変奏のキャラクターを描き分けるのにも大いに役立つ。この作品を弾くピアニストは、タッチやペダルを駆使して、多彩な音色をピアノから引き出すことで、チェンバロの音色変換装置を真似することもあろう。

当夜のタローは少し曲者で、こうした常套手段では満足しない。タローは語り口を変えることで、複数の“登場人物の性格”を弾き分けたり、“情緒の移り変わり”を演出したり、“舞台の転換”をおこなったりする。語り口の変化というのはつまり、子音(音の出だし)と母音(音の広がり)のヴァリエーションを駆使した、ひとり多役の“朗読劇”だ。その意味でこのピアニストは、すぐれた俳優と言える。

タローの面白い点はさらにその先にある。語り口が“フランス語”なのだ。バッハはドイツ語を母語とした。《ゴルトベルク》にはフランスのスタイルを大いに用いている。そのまま作品を理解すれば、“ドイツ語なまりのフランス音楽”といった演奏になってもおかしくない。それもまた、よい音楽たりうる。

タローの母語はフランス語だ。フランス音楽の専門家でもある。そんなピアニストが《ゴルトベルク》を“演じる”と、その語り口は“なまりのないフランス音楽”となる。リエゾンやアンシェヌマン(どちらも語と語とをなめらかにつなげること)、シランス(子音を読まないこと)など、ドイツ語にはない仕組みが、音楽の表現にも浸透している。つまり、曲の思わぬところをなめらかにしたり、ふっと軽くしたりする。作品にはもともとフランス風の部分が多いから、結果としてそれがしっくりこないはずもない。

アリアから30の変奏を経て、元のアリアに戻ってきたとき、バッハの《ゴルトベルク変奏曲》ではなく、バッハと同時代のフランスの作曲家、クープランの《モンドール変奏曲》を聴いたのではないかと思わされた(「ゴルトベルク」も「モンドール」も「金の山」の意。もちろんクープランに《モンドール変奏曲》などという作品はない)。フランスの“名優”、タローの面目躍如である。

アレクサンドル・タロー ピアノ・リサイタル

澤谷夏樹〔さわたに・なつき〕
慶應義塾大学大学院文学研究科哲学専攻修士課程修了。2003年より音楽評論活動を開始。2007年度柴田南雄音楽評論賞奨励賞受賞。2011年度柴田南雄音楽評論賞本賞受賞。著書に『バッハ大解剖!』(監修・著)、『バッハおもしろ雑学事典』(共著)、『「バッハの素顔」展』(共著)。日本音楽学会会員、 国際ジャーナリスト連盟(IFJ)会員。

 

特集

石若駿

今月の音遊人

今月の音遊人:石若駿さん「音楽っていうのは、人の考えとか行動の表れみたいなものだと思う」

4685views

音楽ライターの眼

ジェフ・ベックとレミー・キルミスター(モーターヘッド)、1986年の“幻”の共演

6878views

ピアニカ

楽器探訪 Anothertake

ピアニカで音楽好きの子どもを育てる

14480views

楽器のあれこれQ&A

ピアノ講師がアドバイス!練習の悩みを解決して、上達しよう

4673views

大人の楽器練習記:クラシック・サクソフォン界の若き偉才、上野耕平がチェロの体験レッスンに挑戦

おとなの楽器練習記

おとなの楽器練習記:クラシック・サクソフォン界の若き偉才、上野耕平がチェロの体験レッスンに挑戦

11773views

オトノ仕事人 ボイストレーナー

オトノ仕事人

思い描く声が出せたときの感動を分かち合いたい/ボイストレーナーの仕事(後編)

9472views

水戸市民会館

ホール自慢を聞きましょう

茨城県最大の2,000席を有するホールを備えた、人と文化の交流拠点が誕生/水戸市民会館 グロービスホール(大ホール)

7066views

こどもと楽しむMusicナビ

クラシックコンサートにバレエ、人形劇、演劇……好きな演目で劇場デビューする夏休み!/『日生劇場ファミリーフェスティヴァル』

7066views

武蔵野音楽大学楽器博物館

楽器博物館探訪

世界に一台しかない貴重なピアノを所蔵「武蔵野音楽大学楽器博物館」

23059views

5 Gravities

われら音遊人

われら音遊人:5つの個性が引き付け合い、多様な音楽性とグルーヴを生み出す

2081views

山口正介

パイドパイパー・ダイアリー

大人の音楽レッスン、わたし、これでも10年つづけています!

7296views

太平洋に浮かぶ楽園で、小笠原古謡に恋をする Web音遊人

音楽めぐり紀行

太平洋に浮かぶ楽園で、小笠原古謡に恋をする

10466views

【動画公開中】沖縄民謡アーティスト上間綾乃がバイオリンに挑戦!

おとなの楽器練習記

【動画公開中】沖縄民謡アーティスト上間綾乃がバイオリンに挑戦!

9475views

民音音楽博物館

楽器博物館探訪

歴史的価値の高い鍵盤楽器が並ぶ「民音音楽博物館」

24816views

音楽ライターの眼

仮面ライダーも串刺しに、メタルも恋に落ちた名曲、ジョー・ダッサンの「愛の挽歌」

4647views

オトノ仕事人

音楽フェスのブッキングや制作をディレクションする/イベントディレクターの仕事

13503views

われら音遊人

われら音遊人:オリジナルは30曲以上 大人に向けて奏でるフォークロックバンド

4651views

楽器探訪 Anothertake

奏者の思いどおりに音色が変化する、豊かな表現力を持ったグランドピアノ「C3X espressivo(エスプレッシーヴォ)」

9496views

サントリーホール(Web音遊人)

ホール自慢を聞きましょう

クラシック音楽の殿堂として憧れのホールであり続ける/サントリーホール 大ホール

23099views

山口正介さん Web音遊人

パイドパイパー・ダイアリー

サクソフォン教室の新しいクラスメイト、勝手に募集中!

4766views

EZ-310

楽器のあれこれQ&A

初めての鍵盤楽器を楽しく演奏して上達する方法

919views

ズーラシアン・フィル・ハーモニー

こどもと楽しむMusicナビ

スーパープレイヤーの動物たちが繰り広げるステージに親子で夢中!/ズーラシアンブラス

14524views

ポロネーズに始まりマズルカに終わる、ショパンの誇り高き精神をめぐるポーランドの旅 - Web音遊人

音楽めぐり紀行

ポロネーズに始まりマズルカに終わる、ショパンの誇り高き精神をめぐるポーランドの旅

31111views