今月の音遊人
今月の音遊人:寺井尚子さん「ジャズ人生の扉を開いてくれたのはモダン・ジャズの名盤、ビル・エバンスの『ワルツ・フォー・デビイ』」
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不可思議な靄(もや)のなかを導かれるような時間/萩原麻未&ヴォーチェ弦楽四重奏団スペシャル・コンサート
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2018.11.22
フランス音楽の魅力とは何か、それがもたらしたものは何だったのか。フランス音楽の筆頭に立つドビュッシーと、同時代に親交を結んだショーソンを取り上げた今回のプログラム。気鋭の若手演奏家たちのほとばしるような熱演は、そんな壮大な問いかけへと行き着かせるものであった。
ピアニスト、荻原麻未による「2つのアラベスク」は、ドビュッシーというとまず思い浮かべる、短くも美しい名曲。鍵盤に触れるか触れないかの軽やかな手の動きから、この上なく柔らかな音色が生みだされ、それが響き渡るにつれて空間にうす靄が広がっていく。細かく柔らかに噴射された音たちは、互いに混じり合い、溶け合って、すべての音が鳴り終わった後の残響に、繊細なハーモニーを形作る。
つづくヴォーチェ弦楽四重奏団による「弦楽四重奏曲Op. 10」もまた、この繊細な音の靄を引き継ぐ。4台の弦楽器が呼吸を合わせ、ハーモニーの移ろいを演出する。調性の不確かな響きが混じるごとに、ひとたび生みだされた靄はいよいよ色を濃くしていく。美しいのか、暗いのか、明るいのか、悲しいのか。長調なのか、短調なのか。向かう先は気まぐれに移り変わり、己が留まっているのか、どこかへ向かっているのかさえ定かではない。まさに精神の世界、瞑想の世界に囚われて漂うかのようである。
しかし、この不可思議な時間も終わりが来る。ショーソンの「協奏曲Op.21」の始まりとともに、一条の光がさす。それは、明るく、生き生きとして、安定したハーモニーに彩られた光であり、聴き手の心をしっかりと掴んで、静かな瞑想と彷徨(ほうこう)から確かな足取りで導きだすものである。
この日のスペシャル・ゲストであるヴァイオリニスト、成田達輝は、ストラディヴァリウスを高らかに鳴り響かせ、ピアノと弦楽四重奏を堂々たる風格をもって牽引する。激しく躍動するピアノの援護も得て、4つの楽章が進むにつれて全体の呼吸はひとつになり、ますます華やいで活気に満ちていく。とはいえ、もっとも大きなインパクトを与え、この日のクライマックスとなったのは、まぎれもなく、ソロ・ヴァイオリンがすべてを凌ぐ力強さでもって、抒情に満ちた美しい旋律を歌い上げた冒頭の第1楽章である。この瞬間に、人は安定した調性と心を満たす旋律を得て、高揚感とともに、地に足の着いたような安堵感を抱いたのではないだろうか。
それでも、最後にこう言いたい。ショーソンの音楽がこのようであるがゆえに、いや、それだからこそ、前半のドビュッシーのえも言われぬ美しいハーモニーの残響が、特別な意味をもって迫ってくるのだと。不可思議な靄に包まれて垣間見たのは、まさに美そのもの、手で掴み得るようなはっきりとした形をなす前の美であったのではないかと。近代の訪れを告げたのは、まさにドビュッシーの作るそのような音楽であった。没後100年を迎える記念の年に、そのかけがえのない遺産に想いを馳せたい。
永野純子〔ながの・じゅんこ〕
音楽学者。東京藝術大学大学院博士課程満期退学。ストラヴィンスキーのオペラをテーマに論文を執筆。コンサートの曲目解説のほか、東京オペラシティで毎年開催される〈コンポージアム〉の解説の翻訳なども手がける。