今月の音遊人
今月の音遊人:村治佳織さん「自分が出した音によって聴き手の表情が変わったとき、音楽の不思議な力を感じます」
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「ゴルトベルク変奏曲」を弦楽器で聴く歓び
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2019.6.19
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J.S.バッハの「ゴルトベルク変奏曲」は、通常ピアノで演奏される。だが、旧ソ連(アゼルバイジャン)出身のヴァイオリニスト&指揮者であるドミトリー・シトコヴェツキーが弦楽三重奏に編曲し、グレン・グールドに捧げたトリオ版は、多くの名手たちによって演奏され、録音も行われている。
その弦楽トリオ版に挑戦したのが、トリオ・ツィンマーマンである(2007年結成)。メンバーは、ヴァイオリンがフランク・ペーター・ツィンマーマン、ヴィオラがアントワーヌ・タメスティ、チェロがクリスチャン・ポルテラ。全員がストラディヴァリウスの名器を使用しており、ツィンマーマンは1711年製「レディ・インチクイン」、タメスティは1672年製「マーラー」、ポルテラは1711年製「マラ」。
これまでさまざまな作品を演奏してきた3人だが、ついに「ゴルトベルク変奏曲」の録音に踏み切った。先日、来日したタメスティに話を聞くと、この録音ではシトコヴェツキーの編曲版ではなく、メンバー全員の編曲によるオリジナル版を使用しているという。
「私たちは長年この偉大な作品を録音することを願ってきました。そしてありとあらゆるピアニスト、チェンバリストの演奏を聴き、さらにトリオ版の演奏も聴いてきました。そして3人が既存の編曲版ではなく、自分たちで編曲版を編み出し、それを用いて録音したいということで意見が一致したのです。もちろん、バッハの原曲を生かし、チェンバロの響きを念頭に置いています」
タメスティは多くの録音を聴くなかで、チェンバロでは鈴木雅明、ピアノではマレイ・ペライアの音楽作りに共鳴したという。
「私たちは3人の弦の響きが”ひとつの声”になるよう練習を続け、テンポ、アーティキュレーション、声部の表現などすべてを極限まで極め、あたかも”ひとつの脳”になるような演奏を心がけました」
タメスティのことば通り、この演奏は弦3本が豊かな響きで和し、互いの声を聴きながら次第にゆったりと融合していく。最後のアリアに戻ったときは長い旅路が終わったような感覚を抱くが、また最初に戻るような、新たな旅が始まるような思いも脳裏をよぎる。
ここで、「ゴルトベルク変奏曲」の内容を再確認してみたい。
「ゴルトベルク変奏曲」というタイトルは、J.S.バッハ(1685~1750)の弟子の若いチェンバリスト、ヨハン・ゴットリープ・ゴルトベルクの名に由来している。バッハが与えた元来のタイトルは、「2段鍵盤付きのクラヴィチェンバロのためのアリアと種々の変奏」だった。
ゴルトベルクは当時ドレスデンの宮廷に駐在していたロシア全権公使、ヘルマン・カール・フォン・カイザーリンク伯爵のお抱え音楽家だったが、この伯爵が仕事の激務により、大変な不眠症にかかり、毎夜チェンバロを弾いて主人の気を紛らわせねばならなかった。
そうした夜に弾くためのおだやかで陽気な曲を伯爵から依頼されたバッハは、さっそく以前愛妻のために書いた「アンナ・マグデレーナ・バッハのためのクラヴィーア小曲集」のなかのト長調のフランス風サラバンドを主題に用い、30の変奏からなる長大な作品を短期間で書き上げた。カイザーリンク伯爵は以前からバッハの才能を高く評価し、あらゆる機会にバッハを支援してくれたからである。
完成された「ゴルトベルク変奏曲」は、さまざまな作曲技法が登場する作品となり、カノン、フーガ、舞曲などの要素がふんだんに盛り込まれている。ただし、当時ゴルトベルクは16歳だったことから、技術的にこなせたかどうかという問題も指摘され、一連の逸話に関し、真偽のほどは定かではない。
出版されたのは1742年、バッハが57歳のときのこと。ライプツィヒの聖トマス教会のカントル(教会の責任者)として活躍していた時代である。しかし、このころバッハは周囲と意見が合わず、悶々とした日々を送っていた。そんな受難のときにバッハの支えとなったのはやはり神だったのだろうか。これは孤独のなかでひたすら神を信じ、自らの心に向かって語りかけた内省的で美しい音楽である。
この変奏曲は演奏に約50分を要する長大な作品で、変奏曲史上に燦然と輝く傑作となっている。構成を見ると、主題のバスが基本的な線を各変奏で実践し、そのバスに自由に再現させるという方法をとっている。そのなかで、第6変奏と第18変奏だけはこの基本的な線を上声部に置いている。
バッハは全体と部分のバランスを正確に、また明確な統制のもとに組み立てた。30の変奏曲のなかで、基調のト長調は3回だけト短調に移る(第15、21、25変奏)。真ん中に置かれた第16変奏は、「序曲」と記されたフランス風序曲になっており、全体を2つの部分に分ける役割を担っている。30の変奏は第3、6、9というように3の倍数の変奏がカノンを基礎に作られ、第3変奏から第27変奏まで1度のカノンから始まって音程を1度ずつ増やし、第27変奏では9度になっている。
また、2声のカノンは常にバスの声部を伴い、3声のカノンを構成しているが、第30変奏ではその形式から離れ、素朴なクォドリベット(ラテン語で、好きなようにを意味する。よく知られた歌のメロディを結び合わせてひとつの作品にしたもの)のポリフォニーによるカノンを使用している。バッハは2つの民謡「久しぶりだね」と「ほうれん草と甜菜」を用いているのである。
『J.S.バッハ:ゴルトベルク変奏曲(トリオ・ツィンマーマン編曲による弦楽トリオ版)』
アーティスト:トリオ・ツィンマーマン
発売元:キングインターナショナル
伊熊 よし子〔いくま・よしこ〕
音楽ジャーナリスト、音楽評論家。東京音楽大学卒業。レコード会社、ピアノ専門誌「ショパン」編集長を経て、フリーに。クラシック音楽をより幅広い人々に聴いてほしいとの考えから、音楽専門誌だけでなく、新聞、一般誌、情報誌、WEBなどにも記事を執筆。著書に「クラシック貴人変人」(エー・ジー出版)、「ヴェンゲーロフの奇跡 百年にひとりのヴァイオリニスト」(共同通信社)、「ショパンに愛されたピアニスト ダン・タイ・ソン物語」(ヤマハミュージックメディア)、「魂のチェリスト ミッシャ・マイスキー《わが真実》」(小学館)、「イラストオペラブック トゥーランドット」(ショパン)、「北欧の音の詩人 グリーグを愛す」(ショパン)など。2010年のショパン生誕200年を記念し、2月に「図説 ショパン」(河出書房新社)を出版。近著「伊熊よし子のおいしい音楽案内 パリに魅せられ、グラナダに酔う」(PHP新書 電子書籍有り)、「リトル・ピアニスト 牛田智大」(扶桑社)、「クラシックはおいしい アーティスト・レシピ」(芸術新聞社)、「たどりつく力 フジコ・ヘミング」(幻冬舎)。共著多数。
伊熊よし子の ークラシックはおいしいー