Web音遊人(みゅーじん)

一瀬忍

ピアノとピアニストの絆を築く、アーティストリレーションの仕事

演奏家と楽器の間に立ってさまざまなコーディネートをする仕事は「アーティストリレーション」と呼ばれ、ヤマハのピアノに関しては「アーティストサービス東京」という部署が担っている(株式会社ヤマハミュージックジャパン 鍵盤営業部内)。その重要かつ広範囲にわたる仕事内容について、アーティストサービス東京の一瀬忍(いちせしのぶ)さんに話を聞いた。

ピアニストと信頼関係を築くところから

「たとえば、ピアニストから『次のコンサートでヤマハのこのピアノを使いたい』というリクエストがあったとき、楽器を提供し、調律師を手配し、会場への搬入やセッティングまで、楽器に関することをすべて担当するのがアーティストサービスの基本業務です。ピアニストにとっては自分が理想とする楽器をベストな状態で演奏できるという安心感につながりますし、我々にとってはそのピアニストにヤマハの楽器を使っていただくことで、たくさんの方にその楽器について知っていただく事につながります。さらに言えば、ピアニストが最高のパフォーマンスをしてくださることによって、コンサートにいらしたお客さまに『すばらしいコンサートだった。ヤマハのピアノもよかった』と感じていただくことが最終目標ですね」

一瀬忍 仲道郁代

(写真左)ヤマハホールで行われた仲道郁代さんの「ベートーヴェンピアノソナタ公開マスタークラス」のリハーサル中の様子。(写真右)リハーサル前の調律にも立ち会う。

このようにヤマハのブランドイメージに関わる仕事だけではなく、もうひとつ、アーティストリレーションには大切な仕事があると一瀬さんは語る。
「ピアニストの皆さんにヤマハの楽器を弾いていただき、我々の製品に対する忌憚のないご意見を伺うことも大きな仕事です。新しいモデルのピアノを作るときも、試作段階からピアニストに試奏をお願いし、頂戴したご意見をヤマハの開発担当者と共有することで、より良いものにしていくための参考にさせていただきます。やっぱりここで本音を聞けないと意味がないですからね。最前線で演奏活動をしているピアニストがどういう音色、どういうタッチを求めているかは我々にとって貴重な情報ですので、良い部分だけでなく、改善すべき部分もはっきり言っていただけるような信頼関係を日頃から築いておくことが大切です」

一瀬忍 若林顕

若林顕さんの「ヤマハNew CFX コンサートツアー」の打ち合わせ中の様子。

コンクールは未来のスターとの出会いの場

アーティストサービス東京は営業スタッフと調律師からなり、現在は一瀬さんを含めて6人が銀座のオフィスで働いている。アーティストリレーション業務を専門に担当するのは全国でここだけだというのだから、その忙しさは相当なものだろう。
「コンサートで楽器を貸し出す際は、ピアノと調律師とともに動きます。全国津々浦々、コンサートは週末に開催されることが多いので土日に出勤することも多く、平日も、コンサートがある日は終演後に仕事が終わります。コンクールともなると、期間中はずっと会場に張り付き、コンテスタントからいつ相談があっても対応できるようにしています」

国際コンクールの舞台裏で、各ピアノメーカーの担当者や調律師たちが「もうひとつの闘い」を繰り広げているドキュメンタリーなどを見たことがある方も多いのではないだろうか。
「実際には、コンテスタントがピアノを選べるコンクールは非常に少ないです。ヤマハが公式メーカーとして参加しているコンクールの場合は、未来のスターピアニストと出会える絶好の機会になりますから、ピアノ選びを終えたコンテスタントに『どうでしたか?』と声をかけて、感触を聞くようにしています。たとえヤマハのピアノが選ばれなかったとしても、短い時間でも触っていただけたとしたら、そこから得られる楽器に対する意見もあるかもしれません。若いコンテスタントのなかには何年も相談をしてくださっている方もいたりして、苦労を重ねながら一人前のピアニストとして羽ばたいていくまでの時間を一緒に過ごせることは、私にとっても貴重な体験になっています」

一瀬忍

公演のある日は、デスクワークは朝と夕方の短い時間しかできないことも多い。「仕事のスケジュールは日によって違いますが、夜の公演は19:00〜21:00が多いので、終業時間は遅くなります」

自身もアマチュアピアニスト

さてここで、一瀬さんのユニークな経歴にも触れておこう。「アマチュアピアニストとしても相当な腕前だそうですね」と話を振ると、「いえいえ!」と謙遜しながら、ピアノとの出会いについて語ってくれた。

「ピアノは4歳の頃に自分から『やりたい』と言って習いはじめたものの、高校受験を前に中学校時代に辞めてしまいました。大学時代はフランス語を専攻し、1年間リヨンに語学留学に行ったのですが、ホームステイ先の家にアップライトピアノがあったんです。『今は誰も弾く人がいないから弾いてちょうだい』と言われて弾いたりして、やっぱりピアノは楽しいなと思い、帰国後の就職活動でヤマハを受けようとしましたが、その年は新卒採用がありませんでした。そこで旅行代理店に就職し、10年ほどツアープランナーをしたのちに、中途採用でヤマハに入社しました」

それまでも独学でピアノを弾いていたが、ヤマハに入社してからふたたびピアノ教室に通うようになり、アマチュア向けのコンクールで優勝するまでになった一瀬さん。アーティストリレーションの仕事にも、そのスキルは役立っているのだろうか。
「弾けないといけないという事はまったくないのですが、弾けることで働く想像力は多少あるかもしれません。たとえばピアニストから音色や響きに関するリクエストがあったときに、『こういう感じなのかな』と自分のなかでイメージしたり、『あの曲のあの箇所ではこういうタッチが求められるだろうか』と予測したりするのには役立っているように思います」

最後に、アーティストリレーションという仕事にとって必要な能力はなにかを聞いてみた。
「まずは音楽が好きなこと、それからコミュニケーション能力ですね。それも言葉だけでなく、いろいろなことに気を配り、察知するセンスというのでしょうか。人と人との信頼関係は年単位の時間をかけて築いていくものですから、人と接するのが好きな性格であることは必要だと思います。コンサートのときは、そのピアニストがどんな音色を求めているのか、その日のプログラムではどんな調律の傾向が合っているのかを先回りして考え、安心して本番に臨めるようアレンジしていきます。今でも至らない点はまだまだ多いですが、日々学ぶことが本当にたくさんあって実り多い仕事です」

一瀬忍 上原ひろみ

上原ひろみさんとの打ち合わせの様子。(2017年撮影)

Q.子どもの頃の夢は?
A.小学校の卒業文集には「調律師になりたい」と書いていました。ピアノを弾くことよりも、ピアノという楽器そのものに興味のある子どもで、音楽の授業中もグランドピアノの絵をずっと描いていたり、いろいろなピアノメーカーのカタログを取り寄せてひたすらスペックを暗記したり……。昔からグランドピアノがズラーッと並んでいるような写真を見るとゾクゾクするんです(笑)。

Q.休日はどのように過ごしていますか?
A.私は人と接するのも好きですが、ひとりで過ごす時間も好きなので、休みの日にはひとりでピアノを練習していたりしますね。ヤマハに入社するとき、趣味であるピアノが仕事になったらピアノが嫌いになってしまうのではないかと心配しましたが、まったくの杞憂でした。

Q.好きな音楽は?
A.クラシック以外にもいろいろ聴きますが、クラシックでいうとやはりピアノが入っている曲ですね。交響曲よりもピアノ協奏曲、バイオリンの無伴奏曲よりもピアノが入ったソナタなど。フランスに留学していたこともあり、ドビュッシーやラヴェルは好きです。

photo/ 福知彰子(1~3枚目)、坂本ようこ(4枚目)

本ウェブサイト上に掲載されている文章・画像等の無断転載・無断使用を固く禁じます。

facebook

twitter

特集

今月の音遊人

今月の音遊人:下野竜也さん「自分を楽しく表現できれば、誰でも『音で遊ぶ人』になれると思います」

3625views

音楽ライターの眼

フラメンコ・プログレを代表するカルメンの3作品が2020年リマスター&紙ジャケット仕様CDで復刻

5341views

Pacifica

楽器探訪 Anothertake

「自分の音」に向かって没入できる演奏性と表現力/エレキギター「Pacifica」

1404views

楽器のあれこれQ&A

いまさら聞けない!?エレクトーン初心者が知っておきたいこと

28780views

おとなの楽器練習記

おとなの楽器練習記:独特の世界観を表現する姉妹のピアノ連弾ボーカルユニットKitriがフルートに挑戦!

4832views

マイク1本から吟味して求められる音に近づける/レコーディングエンジニアの仕事(前編)

オトノ仕事人

マイク1本から吟味して求められる音に近づける/レコーディングエンジニアの仕事(前編)

15652views

東広島芸術文化ホール くらら - Web音遊人

ホール自慢を聞きましょう

繊細なピアニシモも隅々まで響く至福の音響空間/東広島芸術文化ホール くらら

13920views

日生劇場ファミリーフェスティヴァル

こどもと楽しむMusicナビ

夏休みは、ダンス×人形劇やミュージカルなど心躍る舞台にドキドキ、ワクワクしよう!/日生劇場ファミリーフェスティヴァル2022

3286views

ギター文化館

楽器博物館探訪

19世紀スペインの至宝級ギターを所蔵する「ギター文化館」

15298views

われら音遊人

われら音遊人:みんなの灯をひとつに集め、大きく照らす

5917views

山口正介さん Web音遊人

パイドパイパー・ダイアリー

サクソフォン教室の新しいクラスメイト、勝手に募集中!

4767views

ポロネーズに始まりマズルカに終わる、ショパンの誇り高き精神をめぐるポーランドの旅 - Web音遊人

音楽めぐり紀行

ポロネーズに始まりマズルカに終わる、ショパンの誇り高き精神をめぐるポーランドの旅

31119views

おとなの楽器練習記

おとなの楽器練習記:独特の世界観を表現する姉妹のピアノ連弾ボーカルユニットKitriがフルートに挑戦!

4832views

小泉文夫記念資料室

楽器博物館探訪

民族音楽学者・小泉文夫の息づかいを感じるコレクション

10440views

音楽ライターの眼

連載46[ジャズ事始め]ジャズの枢軸を動かさんとするアジアン・チームはどのように膨張していったのか

1596views

音楽文化のひとつとしてレコーディングを守りたい/レコーディングエンジニアの仕事(後編)

オトノ仕事人

音楽文化のひとつとしてレコーディングを守りたい/レコーディングエンジニアの仕事(後編)

6333views

上海ブラスバンド日本支部

われら音遊人

われら音遊人:上海で生まれた縁が続く大家族のようなブラスバンド

2694views

Pacifica

楽器探訪 Anothertake

「自分の音」に向かって没入できる演奏性と表現力/エレキギター「Pacifica」

1404views

グランツたけた

ホール自慢を聞きましょう

美しい歌声の響くホールで、瀧廉太郎愛にあふれる街が新しい時代を創造/グランツたけた(竹田市総合文化ホール)

7440views

山口正介さん Web音遊人

パイドパイパー・ダイアリー

サクソフォン教室の新しいクラスメイト、勝手に募集中!

4767views

楽器のあれこれQ&A

モチベーションがアップ!ピアノを楽しく効率的に練習するコツ

41895views

こどもと楽しむMusicナビ

親子で参加!“アートで話そう”をテーマにしたオーケストラコンサート&ワークショップ/第16回 子どもたちと芸術家の出あう街

5683views

ポロネーズに始まりマズルカに終わる、ショパンの誇り高き精神をめぐるポーランドの旅 - Web音遊人

音楽めぐり紀行

ポロネーズに始まりマズルカに終わる、ショパンの誇り高き精神をめぐるポーランドの旅

31119views