Web音遊人(みゅーじん)

上海租界に誕生した楽壇の実像を生々しく描き出す一冊/亡命者たちの上海楽壇 租界の音楽とバレエ

謎めいたタイトルが印象的な『亡命者たちの上海楽壇 租界の音楽とバレエ』。ミステリーのようでもあるが、その内容は、科学研究費助成事業による緻密な共同研究を基に、1920年から40年代の上海楽壇の実像を描いた音楽書。
上海租界とは、「いずれの国にも属さない」特異な都市空間。ここに、ロシア革命やドイツ・ナチの迫害などから逃れた亡命者たちが「磁石のように」引き寄せられ、最高水準の専門教育を受けた芸術家たちが母国で叶えられなかった夢を実現する場を築き上げた。それが上海楽壇である。19世紀半ばから、音楽、バレエ、オペラ、オペレッタ、ジャズ、ダンス音楽、映画など、ありとあらゆるジャンルの、しかも世界最先端の豊かな西洋文化が、ここに根付いていった。

本書のエッセンスがまとめられた「はじめに」の1ページ目から、租界という地の独特な文化に深く引き込まれていく。背景には戦争という激動の歴史があり、それによって日本にも、上海楽壇に花開いた西洋音楽文化がもたらされた経緯も明らかになっていく。租界や上海楽壇という切り口から、新たに日本の興行の歴史が浮かび上がるさまはスリリングでもある。
著者は、中国をフィールドとする民族音楽学研究が専門の井口淳子。2011年、6名の共同研究者によって「租界という多言語空間を劇場文化の切り口でみていく」という、野心的な研究が始められた。彼らが着目したのは、当時、上海租界で発行されていたイギリス、フランス、ドイツ、ロシア、日本など各国語の新聞。とくに貴重な情報源となったのは、公演日やプログラム、出演者、チケット料金など、毎日の公演内容が凝縮された「劇場広告欄」だった。

1939年4月7日付けの英字日刊紙「ザ・チャイナ・プレス」には、ウィーンから東京に亡命中だったレオ・シロタのピアノ・リサイタルの広告が掲載されていた。会場は、上海楽壇の中心的存在であったライシャム劇場。1866年にイギリス人によって建てられた西洋式のこの劇場は、今も現役として稼働しているという。ここで戦時中、指揮者の朝比奈隆が何度もタクトをとった記録にも驚かされる。
研究から集積された膨大なデータには、ほかにも服部良一(作曲家)、中川牧三(声楽家)、小牧正英(バレエダンサー)らの名前も登場。西洋音楽が戦後の日本に定着していく過程で、どのような人がどうかかわったかが掘り下げられていく。静かに、淡々と語られるからこそ力を増す歴史の躍動感は、まるでモノクロの映画を観ているかのようだ。劇場広告がびっしり並んだ当時の新聞や舞台写真、公演プログラムの表紙、その中面といった豊富な資料もまた、想像力をかきたてる。

上海楽壇の潮流が、アウセイ・ストロークという、ひとりのユダヤ人コンサート・プロモーターによってアジア諸都市へと広がっていく全容も、新聞記事と広告から抽出される。当時、日本国内は急速な工業都市化が進み、主要都市に続々とホールが建設されていた時期。1919年10月には大型ロシア・オペラ団のアジアツアーが、東京の帝国劇場ほか、横浜、大阪、京都、神戸を巡演。日本ツアーの後には、上海、マニラ、インドでも巡業された9か月におよぶ大型ツアーだった。このツアーをはじめとして、ストロークがマネジメントした1918年から41年までのアジアツアーの一覧には、バイオリニストのハイフェッツやピアニストのクロイツァーの名もあり、実に興味深い。

読み応え充分な読み物として、また、今に続く生々しい音楽史を知る資料として、音楽にかかわるすべての人にお勧めしたい1冊。とくに、アートマネジメントに携わる人や、アートマネジメントを勉強している学生には、必読の書と言ってもいいだろう。

■インフォメーション

『亡命者たちの上海楽壇 租界の音楽とバレエ』
著者:井口淳子
発売元:音楽之友社
発売日:2019年2月
価格:2,600円(税抜)

詳細はこちら

特集

上野耕平さん

今月の音遊人

今月の音遊人: 上野耕平さん「アクセルを踏み続けることが“音で遊ぶ”へとつながる」

9809views

クランベリーズ/ドロレス・オリオーダン追悼。あらゆる枠を超えて愛された音楽

音楽ライターの眼

クランベリーズ/ドロレス・オリオーダン追悼。あらゆる枠を超えて愛された音楽

4888views

楽器探訪 Anothertake

目指したのは大編成のなかで際立つ音と響き「チャイム YCHシリーズ」

8039views

楽器のあれこれQ&A

ウクレレを始めてみたい!初心者が知りたいあれこれ5つ

3111views

おとなの楽器練習記

おとなの楽器練習記:注目のピアノデュオ鍵盤男子の二人がチェロに挑戦!

6937views

オトノ仕事人

コンサートの音の責任者/サウンドデザイナーの仕事

10001views

ホール自慢を聞きましょう

地域に愛される豊かな音楽体験の場として京葉エリアに誕生した室内楽ホール/浦安音楽ホール

7950views

こどもと楽しむMusicナビ

“アートなイキモノ”に触れるオーケストラ・コンサート&ワークショップ/子どもたちと芸術家の出あう街

5777views

小泉文夫記念資料室

楽器博物館探訪

民族音楽学者・小泉文夫の息づかいを感じるコレクション

8515views

ギグリーマン

われら音遊人

われら音遊人:誰もが聴いたことがあるヒット曲でライブに来たすべての人を笑顔に

812views

パイドパイパー・ダイアリー Vol.7

パイドパイパー・ダイアリー

最初のレッスンで学ぶ、あれこれについて

3861views

太平洋に浮かぶ楽園で、小笠原古謡に恋をする Web音遊人

音楽めぐり紀行

太平洋に浮かぶ楽園で、小笠原古謡に恋をする

8144views

ぱんだウインドオーケストラの精鋭たちがバイオリンの体験レッスンに挑戦!

おとなの楽器練習記

【動画公開中】ぱんだウインドオーケストラの精鋭たちがバイオリンの体験レッスンに挑戦!

12109views

上野学園大学 楽器展示室

楽器博物館探訪

日本に一台しかない初期のピアノ、タンゲンテンフリューゲルを所有する「上野学園 楽器展示室」

17045views

ジャズとデュオの新たな関係性を考えるvol.4

音楽ライターの眼

ジャズとデュオの新たな関係性を考えるvol.5

3372views

オトノ仕事人

音楽をやりたい子どもたちの力になりたい/地域音楽コーディネーターの仕事

6735views

みどりの森保育園ママさんブラス

われら音遊人

われら音遊人:子育て中のママさんたちの 音楽活動を応援!

5835views

ヤマハギター50周年を機にアコースティックギターのFG/FSシリーズがフルモデルチェンジ

楽器探訪 Anothertake

アコースティックギターFG/FSシリーズがフルモデルチェンジ

18042views

武満徹の思い「未来への窓」をコンセプトに個性的な公演を/東京オペラシティ コンサートホール:タケミツメモリアル

ホール自慢を聞きましょう

武満徹の思い「未来への窓」をコンセプトに個性的な公演を/東京オペラシティ コンサートホール:タケミツ メモリアル

11450views

山口正介さん Web音遊人

パイドパイパー・ダイアリー

いまやサクソフォンは趣味となったが、最初は映画音楽だった

5730views

トロンボーン

楽器のあれこれQ&A

初心者なら知っておきたい、トロンボーンの種類や選び方のポイント

11784views

こどもと楽しむMusicナビ

クラシックコンサートにバレエ、人形劇、演劇……好きな演目で劇場デビューする夏休み!/『日生劇場ファミリーフェスティヴァル』

5670views

太平洋に浮かぶ楽園で、小笠原古謡に恋をする Web音遊人

音楽めぐり紀行

太平洋に浮かぶ楽園で、小笠原古謡に恋をする

8144views