今月の音遊人
今月の音遊人: 上野耕平さん「アクセルを踏み続けることが“音で遊ぶ”へとつながる」
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2019年11月来日。エレクトリック・ギターの名手ジミー・ヘリングが原点となったギタリスト達を語る
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2019.11.18
ジミー・ヘリングはジャム・バンドとジャズ/フュージョンの垣根を超えて弾きまくる、21世紀アメリカの誇るギターの達人だ。
ザ・デッドやオールマン・ブラザーズ・バンドなど、ジャム・バンドのオリジネイター達とプレイしてきたジミーだが、『ライヴ・イン・サンフランシスコ』(2018)ではジョン・マクラフリンを向こうに回してマハヴィシュヌ・オーケストラの名曲の数々をプレイするなど、その“名手”ぶりを発揮している。
2019年11月、ジミーが新バンドTHE 5 OF 7を率いて行う来日公演は、クラブ規模の会場でそのライヴを見ることの出来る貴重なチャンスだ。
このインタビューではジミーのスタイルの原点となったギタリスト達について訊いてみた。
――あなたはザ・デッドやオールマン・ブラザーズ・バンドなど、ジャム・バンドのオリジネイター達とプレイしてきましたが、“精神的にハイになって3時間ユルく弾き続ける”タイプではなく、しばしば音数の多い、テンションの高いギターを聴かせてきました。どのようにして独自のスタイルを確立させたのですか?
俺が自分のスタイルといえるものを築いたのは、カーネル・ブルース・ハンプトンとアクエリアム・レスキュー・ユニットでやっていた頃……1980年代終わりから1990年代初めだった。その前からジェフ・ベックやジョン・スコフィールドは大好きだったし、スティーヴ・モーズ、ジョン・マクラフリン、アラン・ホールズワースからの影響が自分のプレイに表れていた。ブルースからよく「さっきのはジェフ・ベックみたいだったな」とか言われたよ(苦笑)。
ブルースは俺の師匠で、常に“自分らしく弾け”と言われてきた。その頃、俺はまだ自分のスタイルを模索している時期だった。そんなある日、友人のデレク・トラックスがアート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズのレコードをくれたんだ。ジョニー・グリフィンのテナー・サックスを聴いて、ハッと眼を開かされた。
次に初期のウェイン・ショーターの『ジュジュ』(1965)、『スピーク・ノー・イーヴル』(1966)に感銘を受けたよ。それからギタリストはほとんど聴かないようになった。いろんな楽器から影響を受けることで、自分のスタイルを築くことになったんだ。アクエリアム・レスキュー・ユニットでは実験を行う余地があったこともプラスに働いたね。
――あなたのバンドであるジ・インヴィジブル・ホイップとジョン・マクラフリンのザ・4th・ディメンションが共演、ライヴ・アルバム『ライヴ・イン・サンフランシスコ』を発表しましたが、マハヴィシュヌ・オーケストラの曲をプレイするのはどんな経験でしたか?
“スリル”なんて言葉では言い表せない、凄い経験だったよ!正直、怖くもあったね。マハヴィシュヌの曲を、本人の前で弾くんだよ?緊張しないわけないだろ(苦笑)?
マハヴィシュヌの音楽は俺の人生を変えたんだ。1970年代の初め、俺はノースカロライナ州のロック小僧だった。マイルス・デイヴィスやジョン・コルトレーンもチャーリー・パーカーも知らなかったんだ。でも17歳のとき、8歳年上の兄にマハヴィシュヌの『内に秘めた炎』(1971)を聴かされて、ジャズの世界に旅立つことになった。
当時レッド・ツェッペリンのコピー・バンドをやっていて、演奏はそこそこ出来たけど、誰もロバート・プラントみたいに歌うことが出来なかったんだ。それで悩んでいたら、兄が「シンガーが見つからないならインストゥルメンタルをやってみれば?」とアドバイスしてくれた。そうして『内に秘めた炎』を聴かせてくれたんだ。人生が一変した瞬間だった。それから雪だるま式にいろんな音楽にハマっていったよ。
――スティーヴ・モーズがギターを弾いている最近のディープ・パープルのアルバムは聴いていますか?
数枚は聴いたよ。俺が少年時代から聴いてきたディープ・パープルの世界観にスティーヴのギターが違和感なく溶け込んでいて、とても興味深かったし、楽しむことが出来た。スティーヴがリッチー・ブラックモアよりも長いあいだディープ・パープルに在籍しているというのには驚いてしまうね!
スティーヴがプレイしたバンドは全部好きだ。スティーヴ・モーズ・バンドも最高だし、彼のカンサスのアルバムも凄いよ。でも彼の参加バンドで一番好きなのがディクシー・ドレッグスなんだ。あれこそがスティーヴの音楽だよ。初めて聴いたのは『ホワット・イフ』(1978)で、衝撃を受けた。ドレッグスが1970年代に“キャプリコーン”レーベルから出した初期3作はどれも名盤だよ。ちなみにオールマンズも“キャプリコーン”から作品を発表していたんだ。
――ディクシー・ドレッグスのライヴを見たことは?
ドレッグスは年がら年中ツアーしていたし、俺は若い頃から何度もライヴを見たよ。初期のマハヴィシュヌ・オーケストラやリターン・トゥ・フォーエヴァー、ウェザー・リポートを見るには、まだ若すぎたし、ドレッグスは“俺のバンド”的存在だったんだ。運転免許を取ってからは、少し離れた町でのライヴまで遠征した。
――ジョン・マクラフリンやスティーヴ・モーズのような最高峰のギタリストから影響を受けるというのはとてつもなくハードルが高いと思いますが、よく挫折しませんでしたね?
マハヴィシュヌの頃のジョンのギターはあらゆる面でソフィスティケートされていた。インド古典音楽のリズム、ジャズのハーモニー、ロックンロールの音量などがあって、萎縮したのを覚えているよ。初めて聴いたときは、コピーしようとは考えすらしなかった。マハヴィシュヌの曲を弾いてみようと考えたのは3年ぐらい後、20歳のときだったよ。ディクシー・ドレッグスもそうだった。スティーヴの超高速ギターとヴァイオリンのクロスオーヴァーという点ではマハヴィシュヌと共通していたけど、スティーヴはジャズよりもクラシック音楽に根差しているように感じた。そうして彼はカントリーの要素も取り入れながら、個性豊かなスタイルを築き上げたんだ。
ジョンやスティーヴのプレイを聴いて、もうギターを諦めようと思ったこともある。でも、俺の2人の兄が「諦めるな。頑張れ!」と背中を押してくれたんだ。彼らは野球のコーチみたいなものだった。もちろん彼らのようにプレイ出来るわけはないけれど、自分らしく弾けるようになっていったんだ。“弾けない”というのは必ずしもマイナスではないんだよ。同じように弾けないなら、自分らしく弾けばいいんだからね!
アラン・ホールズワースらしく弾くのは、少なくとも俺には不可能だ。でも彼のスタイルに触発されながら、自分らしく弾くことで、オリジナルなスタイルを確立させることが出来る。
――アラン・ホールズワースはどのようにして聴くようになりましたか?彼と面識はありましたか?
アランとは親しかったわけではないけど、数回会ったことがある。彼は常に紳士で、暖かみのある人物だった。最後に会ったのは、彼が亡くなる少し前だったよ。ギタリストとしての彼は、別の惑星から来たようだった。同じフレーズを弾くのでも異なったフィンガリングで弾くし、たとえ同じフィンガリングで弾いても、異なったサウンドが出てくるんだ。アランのような音楽家・人間がこの世界からいなくなってしまったのは、残念でならないね。
アランのプレイを初めて聴いたのはニュー・トニー・ウィリアムス・ライフタイムの『ビリーヴ・イット』(1975)だった。トニーの音楽はそれ以前から聴いていたけど、アランのギターに脳天を吹っ飛ばされたんだ。正直、彼が何をやっているのかまったく判らなかった。その後にジャン=リュック・ポンティの『秘なる海』(1977)を聴いた。U.K.の『U.K.(憂国の四士)』(1978)はアメリカではまったく知られていなかった。俺も知らなくて、イギリス人の友達に教えてもらったんだよ。それからブルーフォードの『ワン・オブ・ア・カインド』(1979)を経て、ソロ・アルバム『I.O.U.』(1982)に到着したんだ。
アランのギターが素晴らしいのはもちろんだけど、彼がアルバムごとにさまざまな実力派ミュージシャンと共演するのがスリリングだった。『I.O.U.』や『ロード・ゲームス』(1983)、『メタル・ファティーグ』(1985)は、とにかく聴きまくって、コピーしまくったよ。それなりに巧く弾けるようになったけど、結局コピーするのには限界があるんだ。アランはアラン、俺は俺だからね。それに俺はあんなに手がでかくない(苦笑)。
アランのスタイルはまったくオリジナルだった。アラン自身はジョン・コルトレーンから影響を受けたと話していたけど、彼のスタイルはコルトレーンのコピーとは言い難い。真のオリジネイターというものは、決してコピーは得意ではないんだよ。
――あなたはグレイトフル・デッドの元メンバー達によるジ・アザー・ワンズ〜ザ・デッドでもプレイしてきましたが、生前のジェリー・ガルシアと面識はありましたか?
いや、ないんだ。ジェリーが亡くなる数年前、1993年か1994年だったと思う。ブルース・ハンプトンのバンドでツアーしているとき、ラスヴェガスで1日オフがあったんだ。そのときちょうどグレイトフル・デッドの公演があって、誘われたんだけど、俺はホテルの部屋でギターの練習をするんで行かなかった。今となってはすごく後悔しているよ。同じ理由で、スティーヴィ・レイ・ヴォーンも見ることが出来なかったんだ。ただ、悔やんでも仕方ない。今の俺があるのは、いろんなことを犠牲にして練習を積んだからだって、自分自身に言い聞かせているよ(苦笑)!
『JIMMY HERRING & THE 5 OF 7』
2019年11月25日(月)ブルーノート東京(東京・南青山)
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2019年11月26日(火)〜28日(木)コットンクラブ(東京・丸の内)
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山崎智之〔やまざき・ともゆき〕
1970年、東京生まれの音楽ライター。ベルギー、オランダ、チェコスロバキア(当時)、イギリスで育つ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業後、一般企業勤務を経て、1994年に音楽ライターに。ミュージシャンを中心に850以上のインタビューを行い、雑誌や書籍、CDライナーノーツなどで執筆活動を行う。『ロックで学ぶ世界史』『ダークサイド・オブ・ロック』『激重轟音メタル・ディスク・ガイド』『ロック・ムービー・クロニクル』などを総監修・執筆。実用英検第1級、TOEIC 945点取得
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